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クリアーライトのヴィジョンとゾクチェンの修行の秘訣の教え(5)

第二章「道」

 瞑想とは、「自己の本性を認識する」、つまり「心を完全にリラックスさせる」という見解を、そのまま、何も手を加えることなく、実際に実現させた状態で、心をありのままに、自然に、リラックスさせることである。

 よって、リクパは生来的に、サマーディをその性質として備えているのだから、ただ生来の状態に取り乱すことなくとどまればいいのであって、その境地を改ざんする必要はない。

 そのように生来の境地にとどまりなさい。さまざまな思考(煩悩性のエネルギー)が対象に向かって動くとき、人はまず、思考が生起していることに気付かなければならない。そして、思考の本質を智覚できる状態で正智をし続けるならば、生起する思考は自ずと浄化されるだろう。思考は、生起すると同時に、跡形もなく解放されるだろう。ゆえに、揺れ動く心は、それそのものを観察することで、対抗手段や変容や捨断を適用せずとも、浄化されるのである。

 さらに、善い思考が生じ、そしてその思考の内容がどれほど素晴らしいものであったとしても、「おお、この思考は良い思考だ!」というラベリングに巻き込まれることのない状態で、それにとらわれずにいれば、思考は、対抗手段を使わずとも、自ずと治まっていく。

 執着、嫌悪、あるいは八つの世俗的関心などのネガティブな内容を含んだ思考が生じたときは、そのような思考を持ってしまったという後悔を抱いたり、「ああ、これは悪い思考だ」と思ったりせず、そして思考を払いのけたり、修正したり、捨断したりすることもなく、思考は自ずと解放されるのであるから、心の本性にとどまるべきである。

 清らかな善い思考が生じても、心の真の本質の中は何も変化しない。同様に、ネガティブな思考が生じても、邪悪になることはない。衆生からブッダに至るまで、その土台にある心の本性には何の相違もない。土台の本性は、完全に完成されているのである。

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