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とらわれと苦しみと輝き

 仏教でもヒンドゥー教でも、「この世は苦だ」という。

 それは本当だろうか?

 それは本当であって、本当ではない。

 この世は本当に苦である。それはどういうことだろうか。
 それは細かいことは過去にもいろいろ書いてきたので書かないが、この世の苦を認識できるということは、心がクリアになってきていることを意味する。
 つまり私たちの心は、麻痺しているのだ。
 あるいはごまかしすぎて、自分で自分がよくわからなくなっているのだ。 
 ごまかすのをやめると、「この世は苦だ」という思いや「この世に何か意味があるのだろうか」という思いに気づき、怖くなる。それを潜在的に恐れている心もあるかもしれない。
 しかしごまかすのをやめ、また、修行によって実際にエネルギーがクリアになり、心がクリアになると、当たり前のように、「この世は苦だ」ということがわかってくる。
 この世は苦だ。
 こんなに不自由で不安定で、生きづらく、苦悩の多い世界はない。
 まずそれに気づかなければならない。

 では、「しかし本当はこの世は苦ではない」とはどういうことだろうか?
 実際は、「この世」と言っているのは、条件に過ぎない。
 それを「苦にしているもの」は、「自己の心のとらわれ」だ。
 しかもそれは、正確には、「この世に対するとらわれ」ではない。
 この世そのものには実体がないから。
 では、何にとらわれているのか?
 「この世だと思っているもの」に対するとらわれだ。
 もっと正確に言えば、経験から来る誤った認識に対するとらわれだ。

 つまり正確に言えば、
「この世は苦である」
ではなく、
「無明は苦である」
「誤った認識によりこの世を見ている状態は苦である」
「幻影的なこの世に誤ったとらわれを持っている状態は苦である」
といったほうがいいだろう。

 では、その「とらわれ」や「誤った認識」を取り払ったらどうなるのだろうか?

 この世はすべてが止まるのだろうか?
 
 カルマによってこの世の条件が流れている以上、止まることはない。
 無になることもない。

 そうではなくて、すべてが新鮮で、輝き、至福に満ちたものになる。
 
 これは経験上のものなので、「なぜ?」と言われても困るけれど。

 私は自分の中のとらわれをどんどん落としていったとき、最初、なんだか少し寂しいような錯覚があった。これで本当にいいのかな? という寂しさだ。
 しかしある段階で、あるラインを超えたとき、いきなり世界の見え方が変わった。
 それは寂しいとか無とか、とんでもない(笑)。すべてが光り輝いていた。そう、変なとらわれを、つまり「偽りの幸福」のレッテルをはずしたとき、そこには幸福がなくなるのではなく、真の幸福が現われるという感じだ。
 その幸福というのは輝きであり、研ぎ澄まされ、純粋であり、むき出しであり、ストレートであり、まぶしく、至福に満ち、すべてを包み込むような、そんな感じの喜びだ。
 空を見ても、大地を見ても、人を見ても、街を見ても、花を見ても、ビルを見ても、ごみを見ても、動物をみても、すべてが輝きと至福になる。
 人に褒められても、けなされても、愛されても、嫌われても、願いがかなっても、かなわなくても、すべてが輝きと至福になる。
 朝起きれば至福だし、太陽が出ていればうれしいし、雨でも楽しい。すべての経験がむき出しの至福と輝きを持つ。
 そして輝きというのは本当に視覚的にも光っているし、至福というのは肉体的にも歓喜だ。

 そんな感じになるんだ。
 だから、私の感覚では、修行ってのはストイックだけど、実際は結果的にはストイックじゃないというか、非常に気持ちよく、歓喜に満ちたものなんだね。無になるとか、静まるとかだけじゃないんだ。もちろん、心は静まるけどね。

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