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たちまちにして

【本文】

 極めて重い罪悪をなしても、もしこれ(菩提心)を頼りとすれば、たちまちそれを免れる。あたかも人が勇者に頼って、大危難を免れるように。そこで、どうして迷妄なる衆生によって、(菩提心が)頼りとせられないでよかろうか。

 それはこの宇宙を消滅させる火のように、大いなる罪悪をたちまちに焼き尽くす。これ(菩提心)に対し、無量の賞賛を、聴慧のマイトレーヤが善財童子に説かれた。

【解説】

 過去においてどんな重い罪悪を犯した者であっても、もしその者の心に菩提心が沸き起こり、それを育て、それを人生の柱として生きるなら、「たちまちにして」--それらの罪悪は焼き尽くされるといいます。だからそれを頼りとせよと。
 これはある意味、面白い説き方ですね。菩提心とか慈悲を持つというのは、ややもすると、精神的に余裕のある者のとる道であると受け取られがちです。つまり修行によってある程度の心の安定を得た者が、「よし、衆生も救ってやるか」と(笑)。
 しかしここでは、そうではなく、悪業によって苦しみに沈む者への処方として、「菩提心」が提示されているのです。それこそが、たちまちに君の傷を癒す最高の薬だよと。
 だから、君たちのような、あるいは私たちのような、迷妄と罪悪に悩む者こそ、菩提心を頼りにしないで良いわけがないじゃないかと。そういう強烈な言い方ですね。

 もちろん、念のために言っておきますが、「菩提心を頼りにする」というのは、他人の菩提心をあてにするという意味じゃないですよ(笑)。自分の中に菩提心を育て、それを頼りとするということです。

 ところで、私は思うのですが--極めて重い罪人というのは、誰のことでしょうか? 解脱していない限り、誰にとっても過去というのは、暗く罪悪に満ちたものです。それは当たり前といえば当たり前のことなのです。
 よく、テレビや週刊誌などで、犯罪を犯した者が責められますね。もちろん犯罪は悪いことです。しかし実は誰にも、それを責める権利などありません。過去にどんな罪も犯した者がない者がもしいたら、責めればいいでしょうが、そんな人がどこにいるのでしょうか?
 我々は誰もが罪悪に満ちています。しかしそれはすべて、過去のことといえば過去のことです。だからとらわれる必要はないんだけど、それら過去の行為によって今があるというのも事実です。だから我々の現在は苦に満ちているのです。そしてこの苦に満ちた現在の中で、我々は正気を失い、更なる悪を積み重ね、「しょうがないよ」という妥協の中で、魂を汚す生き方に埋没しています。
 そこから這い上がるために、今と未来を変えるために、ヨーガや仏教では、真理の教えとその修行を提示します。そしてその中でも最高のもの、最も強力で、たちまちにしてすべてのネガティブな要素を打ち砕くほどの威力を持つもの--それが「菩提心」だというのです。
 
 最後の一節は、日本でも有名な大乗仏典の「華厳経」の内容を示しています。この経の中で善財童子という菩薩が、様々なグル、菩薩、神などをたずねて教えを受けるのですが、その中でマイトレーヤ(弥勒菩薩)が、彼に菩提心のすばらしさを様々に説いたというわけです。

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