それそのものによってしか
自分は論理的・哲学的だと思っている人の多くは、真に論理的・哲学的なわけではない。単に教えられた観念や自分の考えに対する盲信が強いだけという場合の方が多い。
もちろん、一般的な事柄についてはそれでもうまくいくことは多いが、真に真理を悟るためには、それでは無理がある。
特に修行の道において、論理的・哲学的な方法だけで真理を悟るのは、現代ではとても難しい。そのためには、徹底的な執着・欲望の放棄と、エゴを極限に弱めることが必要だからだ。準備作りだけでほとんど聖人の域だ笑
現代よりも遙かに欲望の誘惑やエゴ的観念が弱かった古代の修行者たちでさえ、真剣にこの道を行こうとする者は、無一物の放浪生活をおこなったのだ。
欲望の誘惑や、エゴの欺瞞性、そして自己中心癖が非常に強い現代において、この道は難しい。
そして仮に単に放棄と論理によって悟りを得ることができたとしても、その悟りはとても味気ないものだ。
論理によって割り切れるものなど、真理であったとしても味気ないのだ。
本当に生き生きとした真理を悟るには、もう一歩進む必要があり、もう一つエッセンスが必要だ。
よって、やはり現代では特に、バクティヨーガや菩薩行などを修行の軸とすることがお勧めだ。
そこには、真のエッセンスである、言葉を越えた神への信、愛、衆生への愛といったものがある。
それらは素数のように、それそのものによってしか割り切れない。
神への信愛を、何か別の言葉で説明することはできない。もちろん一応いろいろと説明されてはいるが、それはすべて便宜上のものだ。本当のところを言うと、神への信愛は神への信愛。それだけなのだ。
なぜ自分を捨てて衆生を愛するのか?――過去世の母とか、いろいろもっともらしい説明がされるが、それらはすべて便宜上のものだ。本当は、理由などない。衆生を愛するから愛するのだとしかいえない。
なぜ神のしもべになるのか?――それを説明できる、割り切れることばなどない。しもべだからしもべなのだ。
2 ブラフマンは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
3 サットグルは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
5 ゴーヴィンダ(クリシュナ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
7 ナーラーヤナ(ヴィシュヌ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
11 イーシュワラは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
13 一味は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
17 自由なナーダ(オーム、音としてのブラフマン)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
19 イクシュワークの至宝(ラーマ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。
・・・最後の一連の言葉遊びは、こじつけです笑
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