すべては偽りであり、
すべては偽りであり、すべては真実である。
もう少しわかりやすく、別の角度から言うならば、すべては偽りの要素を持ち、すべては真実の要素を持つ。
それが真実になるのか偽りになるのかは、神の意思、そして様々な条件によって決まる。
表面的な意味での絶対なる善悪はない。
たとえば、修行もしていない怠惰なある男が、いきなり、「俺は悟った!」と言ったとする。
これは普通は「偽り」である。条件が整っていないから。
しかしここに「神の意思」があるとするならば、彼の悟りは真実となる。
つまり表面的な条件だけでは本当の意味での事の真偽はわからないということだ。
またちょっと別の角度からイメージ的に言うならば、
空気中に目に見えない二種類の分子があるとして、
あるスイッチを入れると、真実という分子が液体化して姿を現してすべてを覆い、
あるスイッチを入れると、偽りという分子が液体化して姿を現してすべてを覆う。
そしてこのスイッチを握っているのが神である。
しかしもちろんこれは究極の教えであって、普通は最初は、表面的な正しい条件――つまり「基本的なダルマ」に則って物事を判断すべきである。
しかし同時に、そこにいわゆる「聖者」や「師」が絡むことに関しては特に――自己の観念は放棄して、このような柔軟な思考も持たないと、見誤ってしまう。
聖者は本来、この世の条件に縛られていない。ただ衆生への慈悲のために、そして神の意思の遂行のためにのみ、この世にいるのだから。
そして真のバクタ、真の弟子、真の神のしもべには、
このような説明さえ、蛇足に過ぎない。
彼にとっては、帰依の対象が絡むことは、もともとすべて真実なのだから。
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