すべてはバルド
「胡蝶の夢」という故事をご存知だろうか? 荘子が、非常にリアルで永い夢を見た。それは、自分が蝶になった夢であった。その夢があまりにリアルであったため、目覚めたあと、彼は、自分が本当は人間で、蝶の夢を見ていたのか、それとも自分は本当は蝶で、今、人間の夢を見ているのか、どちらかわからなくなった、という話だ。
これは、とても恐ろしい話なのだが、実際、ありうる話なのではないかと思う。
何がありうるのかというと、たとえば夢に入り、蝶となり、そのまま蝶として目覚めるということがありうる、ということだ。
つまり結局、すべては夢なのだ。
チベット仏教風の言い方をすると、すべては「バルド」なのだ。
バルドという言葉は、単に死後の世界を表すというふうに勘違いされているが、実際はそうではなくて、自己の経験や心の観念が作り出す幻影の世界を示している。
そういう意味では、解脱の境地、悟りの境地以外は、すべてがバルドなのだ。
今のこの現実と考えている世界もバルド。
欲六界と呼ばれる世界もすべてバルドだ。
前にも少し書いたが、「六道輪廻は存在するのか」という問いは、実にナンセンスだ。なぜならその人はおそらく、「この人間世界は存在するのか」ということすらわかっていないはずだから。この人間世界が「ある」というならば、他の、地獄から天界にいたる世界も「ある」といえるだろう。もし六道輪廻を「それはバルドに過ぎないから、実際には存在しない」とズバッと言い切るとするならば、同時にこの人間世界も「存在しない」と言わなければならないのだ。
六道輪廻は、魂が見るさまざまな幻影の夢のパターンの分類である。
そして魂は、「死」の経験をしたとき、いったん、それぞれの「現実」から解放される。
この「現実からの解放」というのは、大変な恐怖である。いや、本当はそれのみが「悟りへの道」なのだが、それを知らない、あるいは慣れていない魂は、大変恐怖する。
これは、実際、修行者にもよく見受けられるパターンだ。修行を進めていくと、意識レベルが上がり、なんだか今までの考え方が変わり、この現世がなんだか自分に合わないような感じがしてくることがある。なんだか友達とも話が合わなくなってくる。といっても、まだ悟りを開いているわけでもない。このような時、心はよりどころを失い、不安定な感じになる。そこで安定を求め、現世の煩悩に舞い戻り、修行をやめてしまったり、後退してしまう人がいる。
死後の世界も非常に似ている。死後、すべての「現実」というよりどころから一時的に解放された魂は、言い換えればすべての観念を超えた悟りに最も近い、そのチャンスを得た状態なのだが、それに慣れていない魂にとっては、「よりどころがない、非常に恐い状態」であって、そのときの自分の意識に最も近い「現実」を求め、「転生」するのだ。
魂は定期的に「現実」から引き離される。それが「死」だ。そして定期的に「現実」に引きもどされる。それが「転生」だ。
たとえば憎しみや怒りの感情によりどころを求めた場合、その魂は「地獄」という「現実」に引き戻される。
単なるセックスや食べ物のみをひたすら動物的に求めた場合、「動物」という「現実」に引き戻されるだろう。
すべてを自分のものにしたいという貪りの妄想に駆られた場合は、「餓鬼」である。
ある程度の思索の遊びと、同胞への友情と、その裏側の憎しみ。そして性欲。これらは人間界のテーマだ。
強烈な上昇志向と達成願望、そしてそれらを邪魔する敵への妄想。これは阿修羅の現実を作り出す妄想だ。
そして、解脱はしていないけれど、ある程度の他者への愛、徳のすばらしさ、信仰のすばらしさ、心を清めることのすばらしさ--これらも、悟りではない以上、妄想である。しかし妄想の中では良い妄想である。この良い妄想にひきつけられた場合、「もっともましな現実」である天の世界に生まれ変わることになる。
これが六道輪廻への転生の正体だ。
しかしこれらすべては、「現実」と呼ばれているが、実際はもちろんリアリティではない。
すべては、ドラッグをやったときのトリップのようなものだ。
この事実は、大変恐ろしい事実だ。
これに気づきだすと、最初、非常に恐ろしく感じる。
修行をしていると、死ぬ前から、この人間世界への現実感が薄れ、悟りに近づく。しかしこれは非常に恐ろしいのだ。悟りの前というのは、非常に恐ろしい状態がある。
ここにおいて、「帰依」と「菩提心」、その修習のみが、我々を正しい道へと導く。
真実はすべて「空」であるが、このバルドをわたりきるのに必要なものは「帰依」と「菩提心」なのである。
そしてそれが「二諦」の本当の意味ではないかと思う。
二諦とは、勝義諦と世俗諦という二つの真理のことだ。これは学術的にいろいろといわれているが、実際にその意味を知っている人は少ないのではないかと思う。
悪業や煩悩は、悪しき夢(である地獄の苦しみなどのさまざまな現実)へと導く。
善業や良き思いは、良い夢(である天の幸福などのさまざまな現実)へと導く。
そして帰依や菩提心は、すべての夢からの解放である解脱へと導くのだ。
(「2005年インド修行旅行日記」より)