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「2015年ラーマ生誕祭の講話より」

2015年3月28日

「2015年ラーマ生誕祭の講話より」

 はい、まあいつも言ってるように、こうやってね、一年でいろんな神様のお祭りがあるっていうのは、われわれにそれぞれの神、あるいは聖なる存在との、なんていうかな、結びつきを強めてくれると同時に、それらが表わすいろんな聖なる要素を思い起こさせてくれるという意味で、とても素晴らしいことですね。
 はい。で、ラーマについては、もうなんていうかな、まあカイラスでは、『シュリーラーマチャリタマーナサ』や『アディヤートマ・ラーマーヤナ』等の勉強会をいつもやっているので、ラーマとか『ラーマーヤナ』については改めてこう、説明することはあまりないですけども。ラーマというのは、いつも言うようにインド人にとっては、まあ、というよりヒンドゥー教徒にとっては、非常に、なんていうかな――あの、まあ例えばいろんな派があるわけですけども、派とか関係なくみんなの心にベーシックに根付いている存在らしいですね。
 そしてまあいろんなアヴァターラ、あるいはいろんな、聖者とか神の物語っていろいろあるわけだけども、ラーマの物語、つまり『ラーマーヤナ』っていうのは、至高者ラーマがアヴァターラとして降りてきて、で、ある意味、なんていうかな、スーパーマンとしてふるまうんじゃなくて、人間として、まあ一般的なというかな、多くの人が経験するような喜びと苦しみ、つまり人生における上昇と落胆、これをいろいろ経験していくような物語であるわけだけど。もちろんラーマ自身はそこでいろんな演技をしてるわけですけども、でもそのかたちだけ見ると、人生における、ね、いろんな喜びと苦しみが、あるいはトラブルとその解決等がつまった物語とは言えるね。
 そしてそこにおいて、ラーマご自身は――まあ例えばシーターをさらわれたときに嘆き悲しんだ姿を見せたりとか、まあそういうふうに人間っぱく振る舞ったりするわけだけど、その本質っていうか本性的な意味においては、一切その、普通の人間が陥るような苦楽を経験しても、全く心は動かされない。
 いつも言うように、このような例えば神の祭典等でわれわれが考えること、あるいはそういった教えや物語を学んだときに考えることは、まずわれわれ側からの――例えばこのラーマの場合は――まあ来週ハヌマーンもありますけども――ハヌマーン等に代表されるようなダーシャ、しもべのバクティの姿勢ね。これが『ラーマーヤナ』で謳われている大きな一つのポイントであるので、まあいつも言うようにバクティ――まあ最近ね、日本でもバクティヨーガっていうのはだんだん、ちょっとずつね、浸透してきたんでそれはいいことなんですけども、次の段階としてはやはりバクティの土台として、やはりこのしもべのバクティがしっかりしていないと、まあただの、ね、楽しい歌を歌ったり、あるいは「神よー」って言ってるだけで――まあヴィヴェーカーナンダが批判したようにね、実際は実体が伴わないものになりがちであると。だからいかにして神のしもべとしての心構え、決意を、自分に根付かせるかっていうのは一つありますよね。
 まあそういう話をいつもしてるわけですけども、今日はまた別の角度から言うと、ラーマ様――まあもちろん繰り返すけど、ラーマ様というのは至高者ですので、われわれとはっていうか一般の修行者とか人間とは全く、なんていうかな、真似するとかそういう存在じゃないわけだけど、しかしラーマ様が『ラーマーヤナ』というかたちで表わしてくださっている、つまりわれわれに見本を示してくださっている、ね、サインとしておろしてくださっているのはいったいなんなのかと。
 繰り返すけども、ラーマは『ラーマーヤナ』の中でいろんな――外的に言えば、一般的な幸福と、それから不運を経験します。しかし、そこでラーマは一切心を動かさない。
 一番いいシーン、その代表的なシーンとしては、まあいわゆるあの追放の場面ね。あれは感動的ですよね。つまり、もちろん周りは心動かされてるわけです。うん。まずカイケーイーとマンタラーは、悪い意味でその心が魔にやられてしまい、まあ心を動かしてると。で、それによってラーマ追放となったときには当然ダシャラタはもうね、見ててかわいそうなぐらいに(笑)、心を動かしてると。で、周りも本当にもう悲嘆の中に放り込まれると。しかしラーマは最初にそれを聞いたときに――まあ、この話は何回もしてるけど、その直前まで――はい、ラーマ様はついに王位を継ぐことになりましたと。あなたが次の王様ですと。さあ明日、その王の座に就く式典を行ないましょうと。みんながラーマ様、ラーマ様って盛り上がってる。ワーッ――盛り上がってて、呼ばれたら、森に追放と(笑)。ね。しかもいわれのない、ねえ、まあ一般的に言ったらその、王位の跡継ぎの争いにおいて、策略によって自分が追い出され、十四年も追放される、みたいな、ダダーン――もうドラマでいったら、ダダダダーンっていうか、そんな宣告をされたのに、ふつうにニコッと笑って、「分かりました。ありがとうございます」と。なんの変化もなく、ただ当たり前のように、ちょっと買い物行ってきてって言われたぐらいの感じで、森に行けって言われて「分かりました」って――それまで「王様かー」って思ってたはずなのに、全然もうそれはこだわらずに、「はい、森ですね」みたいな感じで行くと。
 あるいはそれに対する今度はシーターの――まあこのシーターとかラクシュマナの、それについて行きたいっていうときのシーンっていうのは、いろんな『ラーマーヤナ』によってちょっと違うんだけど。ここで学んでる『アディヤートマ』をちょっと振り返ると、『アディヤートマ』においてもこれ感動的なわけですけども――まあそれをラーマが告げに来たと。シーターにね。「いやあ、こうこうこういうことでわたしは王になるのはやめになり、森に十四年間追放されることになった」と。そしたらシーターは、「歓喜に満ちた」って書いてあるんだね(笑)。歓喜に満ちて、なんて言ったかっていうと、「さあ、わたしがまず先を行きます」と。「あなたはただついてくればいいのです」って言うんだね(笑)。うん。つまりその、非常に気高い。わたしがあなたをお守りすると。
 つまり普通だったら、「なんてことになってしまったの!」と。うん。「カイケーイーめ!」とかになると思うんだけど(笑)。あるいは仮に、ラーマが行ってしまうと。で、ついて行きたいって思ったとしても、「でも、そんな猛獣がいっぱいいる森なんてどうしたらいいのかしら?」って思うと思うんだけど、じゃなくて、「ついてくればいいのです」みたいな感じね。
 あるいはまた別の『ラーマーヤナ』では、ラーマが、まあちょっとなんていうかな、一般的な意味での優しさによってね、シーターに対してね――「おまえは本当にお嬢様として育ったわけだから、森の厳しい生活に耐えられるわけがない」と。「だからあなたは宮殿でね、わたしを十四年間待って、宮殿の安楽な生活をしていればいいよ」と優しく言うわけですね。そしたら逆にシーターは怒って――怒ってっていうか悲しんで、「いったいわたしが何をしたというのですか?」と。ね。「どんな悪業がわたしにあって、あなたはそんなにわたしを蔑まれるのですか?」って言うんだね。うん。「蔑まれるのですか」と。つまり普通だったらさ、なよなよした女性だったら、「ああラーマ様、なんて優しいんだ」と。うん。「わたしの身を案じて、そういう優しいこと言ってくださってるんだ」って思うと思うんだけど、でもシーターはそうじゃなくて、「ガーン!」と。「それはわたしに対する蔑みです!」と。ね。うん。「おまえはついて来れないだろうから、城で安らかにしていろ」なんていうのは、このしもべでありあなたの妻であるわたしへの蔑みです、みたいな感じなんだね。
 で、まあ今のは一例ですけども――もう一回言うよ、『ラーマーヤナ』の物語自体を見ると、その外的な起こっている現象っていうのは――まあ『ラーマーヤナ』は世界中のいろんな物語のひな型になったって言われてますけども――物語においても、あるいは現実生活においても、まあありそうなことが、いろんな場面であるんですね。例えば今言った、王位の継承において跡目争いがあって追い出されるとかっていうのは、まあいろんな国で普通にあったでしょう。あるいはそこまでスケールが大きくなくても、自分があるものを得ようとしていたはずなのに、現世的に価値あるものを得ようとしていたはずなのに、全く自分に非がないのに誰かの策略によって奪われ、自分は不当な扱いを受けてしまうみたいなことは、まあよくあることです。うん。で、いろんなことが、トラブルが起きて解決して、トラブルが起きて解決して、あるいは逆に幸運が起きて、その幸運がなくなってとか。つまり誰でもが経験するような人生のいろんな場面が凝縮されてる。で、そこで――繰り返すよ――ラーマは、あるいはまあシーター、ラクシュマナ、ハヌマーン、その他ラーマの周りの聖なる存在たちは、表面的には、演技的に心動かしたりするけども、本質的には一切心を動かさない。
 ちょっと話長くならないようにまとめるけども、例えば、いつも言ってるシヴァとか、あるいはまあこの女神とかね、ああいう存在は――まあ特にシヴァはそうですけども、われわれのカルマを破壊してくれると。つまりわれわれが本当の意味で目覚めるために、あるいはわれわれが本当の意味でこのマーヤーの夢から覚めるために、われわれの悪業、あるいはわれわれの無明を破壊してくれると。で、それによって破壊されたときにわれわれは当然苦しむわけだね。苦しむっていうか、苦しまされるようないろんな現象が起きる。あるいは苦しまされるように心をグジャグジャにされる。これはシヴァの愛であると。あるいは女神の愛であると。で、ラーマの点から言うならば、そのような――つまり、神が、われわれの覚醒のために現わしてくれるこの人生におけるさまざまな現象、ここにおいて―――いいですか?――ラーマのシンボル、「真理を貫く」と。真理を貫くっていうのは別に、教えを曲げないっていう意味だけじゃなくて、心が真理から離れない。そしてここでいう真理っていうのは、ラーマに代表される、つまり太陽のような明るい心だね。あるいは太陽のように明るく、素直で純粋で、まあなんていうかな、柔らかな心。
 もう一回言うよ。シヴァや女神や多くの聖なる力がわれわれのために、われわれの無明を破壊するためにいろんな現象を起こしてくれる。で、そこにおいて、それはただの現象ですよと。それはわれわれのカルマの解放としての現象に過ぎないと。あるいは心をぐじゃぐじゃにされたとしても、それは表層の意識ですよと。そうじゃない、潜在意識あるいはそのさらに奥にあるわれわれの魂っていうのは、常にそれがラーマと一体ならば、何があっても明るいと。何があってもくじけない。まあくじけないっていうのは、ね、なんていうかな、悲劇のヒロインになる必要さえない。「クーーッ、クッ」と、そんな必要ない。もう明るく――だからまあさっきのはいい例ですけども、「えっ、追放? 分かりました」と。ね。うん。なんの問題もないと。ね。買い物に行くように追放されると(笑)。そういう感じで一切を、まあなんていうかな、受け入れると。
 まあちょっとまた別の角度から言うと、ナーローの話とかでもあるけども、ちょっとまた簡潔に言いますよ。われわれは本当に覚醒したかったら、あるいは本当に神に目覚めたかったら、当然ね、なんていうかな、なんかスイッチ入れなきゃいけないんだね。スイッチっていうか、ある扉を開かなきゃいけない。で、普通はですよ、普通はそこに至るまでに、プロセスがあります。で、そのプロセスっていうのは、まあナーローの場合はかなりあれはスピーディーなプロセスです。スピーディーになるほどわけ分かんないです。ね(笑)。で、分かりやすい場合は、これは、そうですね、まあまさに、人生における――まさに今言ったような、喜びと苦しみをいろいろ経験させられるでしょう。喜びと苦しみを経験させられて、で、普通はですよ、喜びと苦しみを経験させられてるうちに、一個一個はまります。一個一個はまって時間がつぶされます。で、非常に長い時間がかかる。それは生まれ変わりも含めてね。生まれ変わりも含めて、いろんなところに引っかかって、喜びに引っかり、喜びの破壊に引っかかり、苦しみに引っかかり、苦しみが、ねえ、なんとかなったっていうことに引っかかり、これを繰り返しているうちに、長い時間をかけて――しかもそこにダルマがなかったら、何度も過ちを犯して、まあすごろくみたいにね、はい、スタートに戻りとか。うん。それを繰り返さなきゃいけない。
 で、修行っていうのは、まず中心にもちろんプラクティス、行法があり、そして教えがあり、それをわれわれは淡々と教えを学び行法を実践し、そして教え通りに日々生きるっていうことを一つの筋としてどーんと立てると。そしていろんなことが起きる。で、このいろんなことに関しては、普通の人と同じだよね。同じっていうか修行者の方が激しいけども。でもまあ起きてることは似たようなことがいろいろ起きる。で、普通の人との違いは、もちろん今言ったようにね、その起きてることにいちいち引っかかり、あるいは引っかかったことによって悪業をより積み――あの、つまり神が引っ張ろうとしてあげているのに、より下にこう下がってしまうようなことの繰り返しの中で、本当に長い時間をかけてやっと気付くしかないと。
 でも修行者の場合、一応の指針が与えられてる。うん。つまり、「これだけ守っとけよ」と。まあ何度も話してる杜子春の話みたいにね。杜子春が「一切しゃべるな」って言われてそれだけを守ったように、この真理の柱だけを守ってろと。うん。いろいろあるだろうけど、真理の柱だけを守ってろと。うん。で、その、真理の柱から決してずれないこと、何があっても真理を貫き通すこと、これがまあラーマの一つの、サインっていうかな、シンボルとして感じるところはあるね。
 そして、ちょっとイメージ的に言うけども、わたしはやっぱりなんていうかな、まあそれぞれ、『クリシュナ物語』の世界とか、あとシヴァの世界、まああるいはチベット密教的世界、ラーマクリシュナ的世界とかいろいろあるわけだけど、この『ラーマーヤナ』の世界も、もちろんわたしもとても好きですけども、まあ、まさになんていうかな、真理を貫く、誠実を貫くっていう一つの大いなるテーマはあるんだけど、そのような非常にシリアスな中心的テーマがあるにも関わらず、なんかコミカルですよね(笑)。なんかコミカルで明るい。うん。つまり、別にふざけてるわけじゃないんだけど(笑)。ふざけてるわけじゃないんだけど、まあそもそもみんな猿とかですからね(笑)。

(一同笑)

 戦士が猿っていう段階でなんなんだ、どうなんだろうって感じだからね(笑)。なんか一個一個の場面が非常にシリアスなんだけど、まあコミカルだと。うん。
 それはね、おそらく、まあもちろんラーマもそうだしね、ほかの登場人物も、もちろんその現象として現われたいろんな、問題とかトラブルとか課題に、一生懸命対処はしてるんだけど、でもやっぱり心の奥のところでは分かってるんだね。リーラーであると。うん。あるいは大いなる、ラーマの御胸の中にね、わたしは今この瞬間も当然いるんだと。うん。そのような安心感がどっしりとありつつ、正面のトラブルにこう、対応してるから、すごい真剣ではあるんだけども、実はちょっと余裕があるっていうか。実は、なんていうかな、安らぎが奥の方にあるっていうかね。
 はい。で、この最新のね、歌にもありますけども、
「いつでも わたしの心に
 笑顔で住まわれる愛しき主よ」
と。
「ジェイジェイシュリラーム」
と。
 だからちょっとまとめますけども、われわれが本当に心の中にね、このラーマ様――ラーマの、もしくはアヨーディヤーっていうものを、ね、あるいはそのさらにおおもとであるヴィシュヌのヴァイクンタ、こういったものを心に抱き続けることができるならば、さっき言ったね、神があるいはグルがみなさんを本当の意味で幸福にしようと思って引っ張っていくその旅の中において、旅路において、いろんなことが起こったとしても、あるいはいろんな、心を普通だったら揺らすようなものが襲ってきたとしても、常に明るく素直で柔軟で、そしてまあある意味、なんていうかな、まあちょっと言葉があれなんですけども、聖なる、軽さっていうかな。うん。聖なるコミカルさって変なんだけど(笑)。聖なる――シリアスなんだけど、実はそんなにとらわれない――心を持って、どんなことでも乗り越えていけるんじゃないかと思うね。うん。
 はい。ちょっと、あんまりまとまってないけども、今日はね、そのような、また新たなるね、スタートの日としてほしいと思います。
 もう一回まとめるよ、これからももちろん、まあ今までもそうだろうし、これからも、みなさんが修行しようとしまいと、いろいろ来ます、人生において。それは当たり前です。でもそれが、みなさんの実になるのか、悟りにつながるのか、あるいはその先のみなさんと縁のある者たちの救済につながるのかどうか、これは当然みなさんの心がそれらを経験しているときに、真理と離れてないか、あるいは、ね、絶対なるものとつながっているかどうか。これが大きなポイントになる。
 で、そして繰り返すけども、このラーマのイメージ、ラーマの恩寵っていうのは、そのような多くの――まあ今言ったことって、いろんな角度でいろんな修行者が当然、同じことをやってるわけだけど――このラーマの世界――まあラーマクリシュナの世界も非常に似てるわけですけどね――っていうのは、そのようなシリアスな厳しい道の中で、なんか楽しんでると。ね(笑)。なんか基本明るいと。ね(笑)。基本その、まあなんていうかな、シリアスでありつつ、まあ、楽しいっていうかな。うん。それはおそらく心にいつもラーマ様がいるからだと。だからみなさんも、そのようなかたちでね、心にラーマ様を忘れずに、これからいろんなことが人生であったとしても、すべて主のご意思通りに、できるだけ早くみなさんの覚醒につながるようにね、受け入れてほしいと思います。

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