「2011年ホーリーマザー生誕祭より」(3)
◎忍耐の権化
はい、それからもう一つサーラダーデーヴィーの特徴としてよく言われるのが、非常に忍耐強いっていうかな。仏教的にいうと忍辱の権化っていうか。
サーラダーデーヴィー自身は、ラーマクリシュナが生きていらっしゃるころは、皆さん今回インドに行った人は行った、ラーマクリシュナが住んでいた寺院からちょっと離れたところにある音楽堂といわれる音楽を演奏する建物の一室に住んでいたんだね。そこはね、こないだ見た人もいると思いますけど、とても狭い部屋だったっていうんだね。非常に狭くて、しかもジメジメしていて、健康にも悪そうな狭い部屋なんだね。サーラダーデーヴィーはラーマクリシュナのそばに住んでるときはずっとそこにいらっしゃった。
ヒンドゥー教の伝統として、女性というのは、特に結婚した女性というのは、あまり他の男性には顔を見せないというかな、そういう伝統があったので、しかももともと恥ずかしがりやだったみたいなんで、ずっとその狭いジメジメした部屋に居たらしいんだね。朝、誰も居ない三時ぐらいに早起きして沐浴したりするときだけちょっと外に出てね、あとはずっと籠ってると。ずっと籠もって自分の修行をしたり、あるいはラーマクリシュナのためのいろいろな奉仕を部屋の中で行なったりしていたと。昼間はラーマクリシュナの信者がいっぱい来るのでそこには出ていかないで、夜になってみんなが帰ったころに、いろいろラーマクリシュナの世話をするためにちょっとだけ外に出るっていうかな。
ヒンドゥー教の女性がそのように伝統的にあまり夫以外に姿を見せないといってもですよ、でも普通は夫とは仲睦ましいわけだよね。夫とは部屋の中で仲良くやってて、でも他のところには顔を見せないんだけど、ホーリーマザーは夫ともあまり会えない。数ヶ月も全然会わなかったこともあるという話だから。もちろん精神的にはラーマクリシュナの大いなる愛に包まれていたわけけど、物理的には夫とももちろん会えないし、非常に狭いジメジメした部屋でずっと一日中いたわけだね。でも別に何の文句も言わないと。それが自分の与えられた環境として喜んで受け入れてる。
あるいはラーマクリシュナが亡くなった後、ラーマクリシュナの生まれた村に引っ越してそこでしばらく住むわけだけど、そこでも多くのいじめというか過酷な辛い日々を送るんだね。しかもラーマクリシュナの弟子達はもちろんホーリーマザーのことを敬愛していたわけども、ホーリーマザーがそのような目に遭ってるっていうことを誰も知らなかった。金銭的にもほとんど貧窮している状態で、精神的物理的にも非常に過酷な状況にあったわけだけど、しかし全く誰にも助けを求めることもなく、ひたすらそれに耐えてたんですね。
あるいは晩年というか人生の後半期は、これも「聖者の生涯」とか読んだら分かると思いますが、ラーディカーっていう親戚のちょっと精神的に病んでる女性の面倒を見ることになって、この女の子もひどい女の子で、本質的にはサーラダーが実は聖者だって分かってたんだけど、表面的にはすごい悪態をついたり、あるいは物を投げたりしたこともあったっていうぐらいだから。そのひどい状況の中でも全く文句を言わずに耐え続けていたと。
これももちろん母なる神はそういうことをする必要もないんだけども、われわれに対する一つのメッセージだと思うね。つまり忍耐だと。
わたしはやっぱり近頃もそう思うけども、この忍耐の重要性っていうのは強調したいと思いますね。やっぱり修行においてという意味でもそうだけど、修行という以前にわれわれの人生における必須の、そして現代人がとても足りない部分で、しっかり身につけなきゃいけない一つの部分は、やはり忍耐力。
忍耐力っていうのは、もちろん第一段階では「ただ耐える」でもいいんですけども、より進んだことを言うならば、しっかりと人々への慈愛を培い、あるいは教えをしっかり理解して――教えっていうのはカルマの法則もそうだけど、母なる神あるいは父なる神がわれわれを導いてくださってるっていうこともすべて含めてね、しっかりと理解した上で耐えると。あるいは忍辱すると。喜んで耐えると。喜んであらゆることを受け入れると。
皆さん言葉ではよくそういうことを言うと思うんだよね。例えばミラバイの歌でもあるように、「わたしはあなたが与えてくれたものだけを食べ、与えてくれたものだけを着て、与えてくれた環境だけで生きましょう」と。「たとえ奴隷として売られようとも、わたしには喜びです」と。「なぜならすべてあなたがなさっていらっしゃるのですから」と。こういった美しいことをわれわれは言葉としては受け入れるんだけど、実際日常生活でいろいろ苦しいことがあると、「うわー!」ってなってしまう(笑)。逃げ出すわけだね。「たとえ奴隷として売られようとも……」とか言ってたのに、ちょっと苦しい環境が来ると、「ちょっともう耐えられません! 先生!」と。「え? 奴隷でもいいんじゃなかったの?」と(笑)。ね。こうなってしまうんだね。これはその人が誠実さがないんじゃなくて、多分そういう人がいたとしても、それは誠実じゃないっていうわけじゃないと思います。忍辱が足りないんです。忍耐力が足りない。逆に言うと、いつもの言葉でいうとね、覚悟が足りない。覚悟ね。それも見せてくれたんじゃないかなって思うね。
ただ、さっきの話とつなげるとね、この覚悟とかあるいは忍耐っていうのは、単純に男らしく自分のことは考えずに突き進め!――でもいいんだけども、それと同時に、実際にはわれわれには母なる神がついてるんだね。そのイメージというかな、確信が持てたら、このわれわれの茨の道というか、われわれが真実を追求するときに必須であるこの過酷な道を通るときにもね、それはあまり過酷ではなくなるかもしれない。そもそもすべて、母なる神の御手の中のことであると。われわれを見守ってくださっている手の中にいるわけだから。
あの、ここでいう母なる神っていうのはもちろん完全なる母なる神なので、ちょっと変な言い方すると、一般のお母さんにはさ、見逃しもあるかもしれないよね。ちょっと変な話っていうか、うちのお母さん――わたしのお母さんね(笑)。わたしのお母さんって、非常に優しいお母さんだったんだけど、あるいは明るくて楽しいお母さんだったんだけど、ちょっと間抜けなところがあったんだね(笑)。だから精神的な意味では「ああ、お母さんは優しいな」っていうのは信じられるんだけど、「でも間違ってるんじゃないかな」っていう(笑)、「あれ? 何か忘れてるんじゃないかな?」とか(笑)、そういう不信はあったよね(笑)。精神的には、お母さんはいつも優しくわれわれのことを思ってくださってるっていうのはあったけども、でもお母さんが準備してくれたとかいうとちょっと信用できないよね(笑)。しかし、宇宙の母はもちろんそれはないからね。単に精神的に優しいだけじゃなくて、完全に――というよりも、この宇宙そのものが宇宙の母だから。ヒンドゥー哲学でいうとね。
宇宙の父といったら変だけど、至高者そのものは一切変化しない。不変であり、時を超えてると。あるいは変化も推移も、あるいは空間も超えてると。よく相がない、無相であるというわけだけど、つまりただの透明な水晶のようなものであると。で、その海から波が現われるように、その純粋で不動なるものから現われた宇宙の母が、この宇宙のすべてなんだね。だからわれわれはなんだかんだいっても、今この瞬間もですよ、もとから宇宙の母の懐の中にいるんだね。それを自覚するだけでも、まずは知識として知り自覚するだけでも、われわれの人生あるいは修行っていうのは、いい意味でですよ、いい意味で結構楽になります。つまり自分は何もない誰も味方がいないところで戦ってるわけじゃないんだと。もともとお母さんの懐の中にいるんだと。その感覚ですね。
修行者の陥りやすいちょっと間違ったところとして、悪い意味でですよ、悪い意味で考えすぎ、重くなりすぎ、固くなりすぎの人って結構いるんだね。「こういう所がなかなか乗り越えられず、もうおれはどうしたらいいのか!」みたいな感じでね(笑)、もちろんその真剣さはいいんだけども、「ちょっと固すぎない?」と。もうちょっと軽く考えていいよと。別にそれは乗り越えられないものじゃないし、ね。だから誤解を恐れずに言えば、もっとユーモアがあっていいんだね。ユーモア。「え? おれこんなけがれあるの?」みたいな感じでね(笑)。「でもこれは確実に浄化できる!」と。「でも結構これ大変かもな」と。「いや、大変そうだ」と。「かなり大変だろうな」と。しかし、「よし! 何カルパかかるか分かんないが行くか!」と(笑)。
その背景には、そこまで軽くなれる背景には、もう一回言うけども、すべてを包含しわれわれを包み込んでくださっている母なる神への全幅の信頼があるんだね。
今日はちょっといろいろな角度から母なる神のイメージを皆さんに伝えようとしてたわけですけども、もちろんね、もう一回最初に戻るけども、別に母とか父とか考えずに全体を至高者として一つの宇宙の主として崇める――それもそれで素晴らしいね。でもわれわれが――機能的な意味としてね、機能的にっていうのは、さっき言ったようなレベルでなくても皆さんが修行の途中でちょっと心が萎える、あるいは空しくなる、あるいはどうしていいか分からなくなるときとかあると思うんだね。そのときに、母なる神のことを思い出してください。われわれが何をしようが、幸福なときも苦しいときもいつも変わらず、これはもう考え方ではなくて、現実的にこの宇宙を包み込んでくださっている母なる神がいらっしゃるんだと。だからわたしは全く心配がないと。寂しくないと。何のネガティブな意識も存在し得ない――という感覚ですね。
これはもう一回言うけども、特に将来、皆さんがどんどんエゴを壊していったときに、今日の話をもし覚えてたらね、実感するでしょう。多分覚えてないだろうけどね(笑)。覚えてないかもしれないけど、思い出すかもしれないね。「そういえば何か言ってたな」と。「何だっけな?」と。で、それを思い出せたら、それは皆さんにとってとても大きな力となると思うね。
はい、今日はこれで質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。