「鳥のダルマの素晴らしき花輪」より(14)
ヒバリはこれまでに多くの生まれ変わりを体験し、すっかり疲れ果てていました。そこで涙を流しながら、「キュキュル、キュキュル」と鳴きました。この鳴き声で「喜びは苦しみに変わる」と言っているのです。
「生命界にあるときは、どんな生き物の喜びもいつかは苦しみに変わります。キュキュル。
過去に死を体験した者は、生まれ変わりの喜びもすぐ苦しみに変わります。キュキュル。
他人が富を得ている浅ましい様子を見ると、自分が富を得てもその喜びは苦しみに変わります。キュキュル。
せっかく育てた作物が霜や雹でだめになっていくのを見ると、お百姓仕事の喜びも苦しみに変わってしまいます。キュキュル。
年老いた父母がとぼとぼと帰っていくのを見ると、子供を育てる喜びも苦しみに変わります。キュキュル。
その時が来たら身体を離れて旅立たなくてはならないのだから、身体への愛の喜びはいつか苦しみに変わります。キュキュル。
その時が来たら一人で旅立っていかなくてはならないのだから、友への愛の喜びも苦しみに変わります。キュキュル。
墓地に死体が埋められるのを見ると、身体を自分の拠り所として誇る気持ちも苦しみに変わります。キュキュル」
ヒバリはさらにこう続けました。
「喜びが苦しみに変じていく、こうした行ないに、いったいどんな意味があるのかしら。
家庭が苦しみの源泉ならば、家庭にいったいどんな意味があるのかしら。
不幸を作りだしながらも離れられない、争い合う家族にいったいどんな意味があるのかしら。
育ててやっても少しも良いことをしないなら、息子を持つことにいったいどんな意味があるのかしら。
いざというときに体を張って守ってくれない友達なんて、いったいなんなのでしょう。
使い道のわからない財産なんて、いったいなんの意味があるのかしら。
死の王から守ってくれない要塞などに、いったいなんの意味があるのかしら。
不幸と死を撒き散らす政治家なんて、いったいなんなのでしょう。
ダルマなき世界で食事をして身体を保ったとして、それがいったいなんなのでしょう。
聞いて学ばず理解もしないなら、説法で語られた言葉にいったいなんの意味があるのかしら。
自分の利益ばかりを考えているならば、利他の心とはいったいなんなのでしょう。
守ろうという気持ちがたいしてないのなら、戒にいったいどんな意味があるのでしょう。
たくさんの無意味な行ないがこの世にはいっぱい。それらにどんな意味があるのかしら。」
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