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「遇来の客」

【本文】

 愛しいもの、憎らしいもののために、私はしばしば罪悪を犯した。いつかはこれらすべてのものを捨てて行かねばならぬ事実を、私は悟らなかった。

 やがては憎らしいものもなくなり、愛しいものも存在しなくなるであろう。私も存在せず、すべてのものもなくなるであろう。

 知覚せられたあらゆるものは、すべて記憶の中に去り行く。夢で知覚したもののように、一切は過ぎ去って、再び認められない。

 私がここにとどまっている間に、愛しいもの・憎らしいものの多くが、過ぎ去っていった。ただ彼らのために犯した恐ろしい罪悪だけが、私の面前に残っている。

 かように私は、自己がこの世の遇来の客であることを認識しなかった。そして無智と貪愛と嫌悪によって、多くの罪悪を犯した。

【解説】

 ここは読んだだけでも理解できると思いますが、少し解説しましょう。これはすばらしい詞章ですね。

 もし我々が、その愛しい人や物、あるいは憎らしい人や物と、永遠に一緒にいることができるなら、あるいは永遠にいなければならないならば、執着や嫌悪により、いろいろなことをやってしまうのも、少しは理解できるかもしれません。
 しかし我々はこの世の「遇来の客」なのです。つまりたまたま、旅の途中で、この世に立ち寄ったようなものです。死ねばまたまったく別の世界に、別の人間関係の下に、生まれ変わります。
 それは周りの人々も同じです。皆、たまたま私と同じ世界に立ち寄り、我々はたまたま出会ったのです。
 ミラレパも、
「ちょっと出会ったに過ぎない友人や親戚たちといがみ合うとは、実にお笑いだ」
と言っています。

 死を考えなくても、今生だけを見ても、我々の関係は一時的なもの、ということは多々あります。ましてや数え切れない輪廻転生を視野に入れるなら、愛しい対象も憎らしい対象もすべて、本当に「ちょっと出会ったに過ぎない」のです。
 しかしその「ちょっと出会ったに過ぎない」仲間や敵のために犯した罪悪は、自分の中に確実に残っているのです。
 これはばかばかしいことだとは思いませんか?
 
 日本には「一期一会」というすばらしい言葉がありますね。我々は本当に一瞬、会ったのです。恋人や敵と「明日も必ず会うだろう」と考えるのは、妄想に過ぎません。たまたま合い、そしてもう二度と会えないかもしれないのです。
 それをリアルに考えるなら、その貴重な出会いを大事にし、相手を最大限尊重することはあっても、執着することはなくなります。もう二度と会えないかもしれない相手に執着しても苦しいだけですからね。あるいは、相手を憎み、悪業を犯すのもつまらないことです。もう二度と会わないかもしれない相手のために、自分が悪業をなすなんて、馬鹿馬鹿しいと思いませんか? 誰のためにもならない悪業を、わざわざなぜ背負うのでしょうか?

 そう考えると、そのような無智のために、誰のためにもならない悪業を犯してしまった過去を恥じ、また今からは決して、執着や憎しみから来る無意味な悪業をなさないぞと決意することができるでしょう。また、いろいろな人や物に対して、強い執着や憎しみを持つことのデメリットが理解できてくるでしょう。
 
 我々はものすごい確率で、たまたま出会っているのです。その出会いを喜び、お互いを尊重しましょう。そしてもう二度と会えないかもしれないのです。だから一切にとらわれず、風のように行きましょう。
 ただ聖なる三宝との絆だけを固く握り締めて。

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