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「解説・マルパの生涯」(6)

【本文】
 マルパには四人の中心的弟子がいましたが、その中でも最も有名な一番弟子がミラレーパでした。あるときマルパが夢で見た内容とミラレーパが夢で見た内容が一致し、再度ナーローのもとに行かなければいけないというメッセージを受け取ったマルパは、高齢を理由としたみなの反対を押し切って、一人で三度目のインドへの旅に出ました。
 しかしそのころ、ナーローは非常に特殊な状態になっていました。普通の人では会うこともできないような状態で修行をしていたのです。
 マルパは、師に会いたいという強烈な一心で、みなの助けを借りながら、八ヶ月間、ナーローを探し続けました。
 そうしてついにナーローに相見えることができたマルパは、チベットで集めてきた黄金を、惜しげもなくすべてナーローに布施しました。しかしナーローは、
「私には黄金は必要ない」
と言って、受け取ろうとしませんでした。マルパは、
「あなたには黄金は必要ないかもしれませんが、私自身の、そしてこの供物を集めるために助けてくれた人々の、そしてすべての衆生の功徳の完成のために、どうかお受け取りください」
と懇願しました。するとナーローは、
「では、これがグルと三宝への布施となるように」
と言ってその黄金を受け取ったのですが、そのまますぐにぽいと森の中に捨ててしまったのでした。
 黄金を集めたときの苦労を思い出し、マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローは、
「私にもし黄金が必要なら、この大地すべてが黄金なのだ」
と言って大地を足で踏むと、大地が黄金になったのでした。

 はい、マルパには四人の中心的弟子がいて、その中でも一番有名なのがミラレーパね。はい。で、そのミラレーパとマルパが見た夢の内容が一致して、で、それはまあ、いわゆるダーキニーね、女神が出てきて、マルパがまだ受けていない教えがあると。それをね、ナーローの下で受けなければいけないということを示唆するような夢だったんだね。
 で、みんなは――まあマルパはこの当時、何歳だったかは分からないけど、かなりもう高齢になってたんで、ちょっとね、インドへの旅は危険であると。――みんな反対したわけだけどそれを押し切ってね、インドに旅立ったと。
 しかしそのころナーローは、非常に特殊な状態になっていたと。まあこれはナーローの生涯でも最後の方に出てきたかもしれないけど、死んでるとも生きているとも言えないような、ちょっとこうなんていうかな、まあ聖者のある特殊な状態になっていて、普通の人では会うこともできない――まああの、『あるヨギの自叙伝』に出てくるババジみたいな感じなのかもしれないね(笑)。一体、存在するのかしないのか分からないような(笑)。しかしカルマがあったものだけがまあ会えるっていうかな。そういう状態だったのかもしれない。
 で、まあマルパは一生懸命、みんなの助けを借りながら探すわけだね。で、ついにナーローに会いましたと。で、喜んで、マルパはね、チベットで、まあつまりもう長い年数かけて集めた――まあ自分もね、ビジネスとかやったり、あるいは弟子が布施してくれたりして、本当にもう苦労して集めた大量の黄金をナーローにお布施しようとしたと。しかしナーローはそんなものいらんと。ね。で、まあこれは有名な話だね。何回かみんなにも話してますけども、「あなたはいらないかもしれませんが」――ね。「わたしと、それからこれに関わったすべての人、そしてすべての衆生の功徳のために、どうかお受け取りください」と。そこでナーローは、「あ、それなら分かった」と。「じゃあ受け取ろう」って言って受け取るんだけど、ポイッて森に捨ててしまうと。ね(笑)。で、そこでマルパは、ちょっと悲しくなってしまうわけだね。でもそこでナーローが、ちょんと――「わたしにとってはすべてが黄金である」と言って、ちょんと指で、足の指でね、大地に触れると、大地が黄金になりましたっていう物語ね。
 まあこれはあの、よく、布施の、なんていうかな、お布施というものの意味合いっていうかな――を説明するときによく、たとえとして使われる。つまりお布施っていうのはもちろん、例えば聖者にお布施をするとして、聖者がそのお布施を欲しがっているからする、というんじゃないんだと。じゃなくてそのお布施する側が、お布施させていただきたいと。心から、わたしはお布施をしたいっていうその清らかな気持ちによってするんだという話だね。聖者側というか、その受け取り側は、全くそれを欲しているわけではないと。この辺がだから、よく言われる、例えば一般的な献金とかとの違いですね。献金っていうのは、つまり実際に受け手側も欲しがっていて。まあ欲しがっているというか必要としていて。そのために、じゃあこれをそのために使ってくださいっていうその、なんていうかな、やり取りがなされるわけですね。これはこれでもちろん、目的が正しければそれはもちろん、それはそれで素晴らしいわけだけど。でも、仏教とかヨーガでいうところの、まあお布施ね、ダーナと言われるものの本質はそこにはない。そうじゃなくて純粋に清らかな――この辺はちょっとね、伝えるのがちょっと難しいんですね。
 伝えるのが難しいっていうのは――ちょっと、じゃあ浅いことをまず言いますよ。浅いことを言うならば――それは、お布施する者の功徳のためであると。これは浅い話です。つまりその、相手のためではなくて。ね。「わたしが功徳を積みたいんで」――まあここでマルパが言っているように、「わたしが功徳を積みたいので、どうかお受け取りください」と。ね。つまり、「さあ、このお金で、先生、お寺でも立ててください」――そういうものではなくて(笑)、「わたしの功徳のためにこのお布施をお受け取りください」と。これはまあ基本的なお布施の概念です。でもこれもね、実はまだ浅い話なんです。
 もうちょっと本質的なことを言うと、あの、これは分かる人は分かるでしょうけども、お布施というのは、それそのものが純粋な喜びなんだね。お布施自体がね。これはその――まあわれわれはね、この日本に生まれて、小さいころからちょっとこう、なんていうかな、餓鬼的な――つまり金銭的なね、ちょっとこう、餓鬼的な発想を教え込まれているから、ちょっとけがれちゃっているんだけど(笑)、前生から仏教とか、あるいはバクティヨーガとかの教えを学んできている人は、心の中に必ずこれを理解できる気持ちがあるはずです。徳とかももう関係ないんだね。徳になるとかそんなのも関係なくて。もちろん、これを何に使ってもらうとかそんなのも関係なくて。純粋に、お布施させてくださいと。なんていうかな、清らかな気持ちがあるんだね。これがまあ、本来的なものなんだね。まあだから、これはまあ、なんていうかな、ここでマルパはちょっと悪い例として、よくたとえに出されるわけだけど。ここでマルパがシュンとしちゃったのが本当は間違いなわけです。ね(笑)。つまり、お布施はもう、「もうこれを受け取って欲しいんです」と。これで、受け取ってくださったらもうそれだけでもう歓喜なはずなんだね。歓喜で、それがどう使われようが関係ないんです。それをナーローが森に捨てたって、別に関係ないんです。もうそれはナーローの勝手だから。でもここでちょっと、まだマルパには、そのビジネスマン的なけがれがあったのかもしれない。つまり受け取ってもらって、それで例えばナーローがね、ナーローが自分で例えば、なんかおいしいもの食べたとか、あるいはお寺を立てたとか、そしたら喜ぶかもしれないけど。じゃなくて、受け取ったそばからポイって捨てられたら、「ああ、マジかよ」と(笑)。ね。「おれの苦労はなんだったんだ」ってその(笑)、合理的なこう、なんていうか頭が働いてしまったんだろうね。でも、そうじゃないんだと。そうじゃなくて、なんていうかな、布施そのものが純粋な喜びっていうかな。
 これの逆に、いい例として挙げられるのが、これも、ここで前に話したことがあると思うけど、これは原始仏典にある話なんだけど、原始仏典の中で――まあちょっと簡単に、端折って言いますけどね。これまあ何回か話したね。昔、お釈迦様の前の仏陀――つまりお釈迦様が地上に現われる前にカッサパっていう仏陀がこの地上に現われたんだけど、そのときお釈迦様はカッサパの弟子で――なんだっけな、名前?――ジョーティパーラか。ジョーティパーラっていう名前のカッサパの弟子だったんだね。まあそういう時代があったんだけど。そのころにカッサパの在家の第一の信者がいたんだね。この在家の第一の信者っていうのは、ガティーカーラっていう名前の信者だったんだけど。
 このガティーカーラとカッサパのエピソードとして、まあガティーカーラっていうのは、本当はね、もう偉大な魂だったんだけど、でも出家はしなかった。なんで出家しなかったかっていうと、盲目の両親を養っていたんだね。つまり目の見えない両親を自分で養っていたから、まあ自分が出家してしまうとその盲目の両親が生きていけなくなるっていうんで、まあ出家はしなかった。で、在家で、カッサパの、仏陀カッサパの第一の信者として頑張ってたわけだけど。
 で、いかにカッサパがガティーカーラを信頼してたかっていうエピソードがいろいろあるんだね。それは例えば、カッサパが食事時間になって、「さあ、そろそろ食事をしたい」と。で、弟子たちに言うわけですね、「ガティーカーラのところに行って、食事を持ってこい」と。で、弟子たちは「分かりました」って言って、ガティーカーラの家に行くんだね。そうすると、ガティーカーラは留守であった。留守で、盲目のお父さんお母さんだけがポツンとこう座っているだけだった。そしたらそのカッサパの弟子たちが何も言わずに、窯からご飯を取り(笑)、鍋からスープを取り、持って行こうとしたんだね。そうするとその音を聞いて、盲目のお父さんお母さんは「誰ですか?」と。「誰かなんか勝手にご飯とスープを持って行こうとしているみたいですけど、あなたたちは誰ですか? 何やってるんですか?」って言ったら、「いやあ、実は、仏陀カッサパがね、食事時間なので、食事を欲しがっているので、ここから持っていくんです」って言ったら、その盲目のお父さんお母さんは、「ああ! どうぞどうぞ」と(笑)。「ありがとうございます、どうぞ持っていってください」と。ね。で、ガティーカーラが仕事から帰ってきたら、ご飯とスープがないと。ね(笑)。「一体何があったんだ?」と。で、お父さんお母さんに聞いたら、「カッサパ様の弟子がやってきて、持っていったんだよ」と。それを聞いてガティーカーラは、「わたしはなんと信頼されているんだ!」と。ね(笑)。それと、自分が――つまり自分がなんの行動もしていないのに、布施をさせていただいた。しかも、それはあっちから布施を受け取りにやってきてくださったということに、大いなる歓喜が生じ――お父さんお母さんは数週間、ガティーカーラは数か月間、歓喜が消えなかったっていうんだね(笑)。その、「ああ! ご飯を持って行ってくださった!」「しかも無断で持って行ってくれた」と。「こんな幸せなことがあるだろうか!」っていう歓喜が、数か月続いたっていうんだね(笑)。で、お父さんお母さんでさえも数週間続いたんだね(笑)。この純粋な気持ちっていうかな。
 で、別のときには今度は、まあインドって雨期があるわけだけど。雨期っていうのは出家修行者も――出家修行者っていうのは普段は森とか放浪するんだけど、雨期だけは、まあある家っていうか寺みたいな所に住むんだね。で、あの、カッサパ、仏陀カッサパが住んでいたその住まいが、雨漏りし出した。そしたらカッサパが、あの、弟子達にまた命令するんだね。「おまえたち、ガティーカーラー家に行って、屋根をはぎ取ってこい」と。ね(笑)。で、弟子たちは「分かりました」って言って(笑)、ガティーカーラの家に行って、あの、屋根をミシミシってやり始めるわけだね(笑)。で、またそのときは、ガティーカーラがいなくてお父さんお母さんしかいないだけど、「我が家の屋根を取るのは誰ですか?」(笑)

(一同笑)

 ――聞くんだね。そしたらそのカッサパの弟子たちが、「いやあ、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行きます」と(笑)。で、またお父さんお母さんは歓喜になるんだね。で、ガティーカーラが帰ってきたら、屋根がないと(笑)。「一体どうしたんですか?」と。そしたらまたお父さんお母さんが言うには、「いやあ、カッサパ様の弟子たちがね、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行ったんだよ」と。そこでまた同じように、「なんとわたしは幸せなんだ」と(笑)。「なんとわたしは信頼されているんだ」と。ね。「わたしが何もしないでも、このように布施ができる。それをさせてもらえるっていうのは、なんと素晴らしいんだ!」と言って、また数か月間歓喜が消えなかったと(笑)。しかも、雨期なんだけど、ガティーカーラーの家はね、全く雨がさし込まなかったって言われている。まあこれは仏典で、原始仏典で有名な、布施の話なんだけど。まあこういう気持ちが、本来的な布施の本質なんだね。
 つまり、なんていうかな、まあここではもちろんカッサパの役に立ってるんだけど、役に立とうが立たまいが関係ないっていうか、布施させていただく――その気持ちっていうかな。自分の、なんていうかな、まあ本当にくだらない――はっきり言ってくだらないもんです。くだらないっていうのは、例えばお金にしろ、あるいは例えば食べ物にしろ、あるいは自分の体を布施するにしてもね、わたしのカルマによって今生じている、もしそれを布施以外に使ったならば全くくだらないものにしか使えないようなものを、布施という清らかなものに使わせていただける喜びっていうかな。それがもう理屈ない喜びとしてあるんだね。これはバクティヨーガの、神への帰依が理屈ないっていうのと同じようにね。だから本質的には布施というのは全く理屈がないと。
 で、まあもうちょっとレベルを落としてっていうか浅い意味で言うならば、それは、なんていうかな、現実的な目的のためではなくて、功徳のためであると。まあこれは、それぞれの理解においてどっちの理解でもいいわけだけど。
 その観点から言うならば、マルパとナーローのこの場面のね、物語っていうのはすごく、いい、まあ例えば話になるんだね。つまり布施させていただくこと自体が喜びなんであって。そのあとそのお金を、例えばどこかに捨てられようと、全くそれは関係がないっていうかな。
 例えばさ、もうちょっと現実的な話で言うと、例えば皆さんがね、例えばわたしだったらわたしに、なんかすごく、こう清らかな信を生じて、わたしに「どうかお布施を受け取ってください」ってお布施をしたとするよ。で、それをわたしが受け取ってですよ――そのお金で明日、キャバクラに行ったとするよ。 

(一同笑)

 例えばの話だけどね(笑)。そしたら、「先生、何やっているんですか?」と。「あの布施でそんなキャバクラなんか行ってるんですか?」――そんなこと思ってもいけないっていうことだね(笑)。つまり、なんていうかな、このお布施でどうしてほしいっていうのは全く関係がないっていうか。それはもう、ガティーカーラが受け取ってもらっただけで何か月も喜びが続いたようなものでなければいけないと。
はい。これはあの、何度かね、この話はしてましたけども。

 ここまでで何か質問その他ありますか? 特にないかな? 

 まあ今布施の話が出たので――わたしは本当にね、布施はとても勧めます。もう徹底的に布施してください。もちろんこのカイラスとかわたしに布施してもいいけども、もしわたしとかカイラスに布施するのが嫌だったら(笑)、もちろん他の所でもかまわないよ。例えばチベットの組織でもいいし、ヒンドゥー教系のね、聖者でもかまわない。とにかくまあ、自分の好きなところでかまわないので、布施は本当にやった方がいいです。これはわたしがいろんな人を見てきた経験でもあるし、わたし自身の経験でもあるけども、布施をしっかりしている人っていうのは、確実に修行が進みます。それから、修行からドロップアウトしません。布施をしっかりしている人はね。
 もちろん布施は、なんていうかな、それぞれの条件があるだろうから、例えばお金があまりない人は、まあもちろんその自分の条件内で、できるだけの布施をすればいい。その布施の気持ちが大事ですね。自分のできる限界内での布施を、心を込めてし続けると。これは本当に大切です。これはなんていうか、理屈を超えている(笑)――超えているっていうか、もうなんていうかな、あの、「大切だ」としかもう言いようがないんだけども。
 もちろん、戒律を守ったりとか、教えを学んだりとか、そういうのはまあ全部必要なんだけども、布施の功徳ね、これは戒律とか教学とかに比べると、ちょっとこう、論理的に説明が非常に難しいんだけど。でも、すごく重要です。ですから、まあなんていうかな……限界までっていうとあれだけども(笑)、自分のできる範囲で――まあそうですね、自分が今思っている――今、皆さんそれぞれ、お布施とかっていうのは大事だっていう気持ちあるでしょう。その気持ちを、もうちょっと上げてください。今思っているよりももうちょっと、大事だって強く思ってください。で、なんていうかな、力を込めてね、布施行にも、修行のね、ポイントを置いてったらいいと思いますね。 

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