「解説『至高のバクティ』」第4回 「バクティ」④(2)
これ、この間の何かの勉強会で言いましたけど、「バクティヨーガの歌」にもあるように「あなたへの終わりなき愛をお与えください」と。これ、例えば「ラーマクリシュナの福音」でもそうだし、あるいはさまざまなバクティ系の経典ではいろいろそういう場面が出てくる。つまり神への祈りとして、「あなたへの完全なる愛をお与えください」と。こういう祈りがあるんですね。
これ、この間話しましたよね。もし皆さんが神様に、よくある漫画みたいにね、「何かお前の願いを一つ叶えてあげよう」って言われたら、決してお金なんか願ってはいけないし、あるいはもちろんかわいい奥さんとか願っちゃいけないし(笑)、あるいはもちろん修行上のことだったとしても「解脱させてください!」――これも駄目です。駄目ですっていうか、別にいいけども、いいけども、価値の違いがある。
皆さんもなんかたまに「何が一番いいのかな?」って思うときあるでしょ?
ちょっと話がまたズレるけど、これも何度も言っているけど、わたしが例えば中学生のときにね、まだヨーガ修行始める前に――でもまだヨーガは知らなかったけど何か道を求める気持ちがあって、で、近くの山に一人で登ってね、格好良く山道をかき分けてね(笑)、岩山とか登っていって、山の頂上で神に祈ったことがあるんだね。で、その話をよくするときにわたしは、「神よ、わたしに真理をお与えください」と願ったっていうふうにわたしは話することもあるけども、実際はちょっと違ったんですね。何が違ったかというと、そのころからちょっとわたしはそういうセンスがあったのかもしれないけど、つまり何か求めるものがあった。求めるものがあって神に祈りたかったんだけど、「真理をお与えください……これでいいのかな?」というのがあったんだね。「真理って何だ?」(笑)。あるいは「求めるものは真理でいいのか?」――いいような気もするけど、何か微妙に違うような気がする。あと、「お与えください、でいいのか?」――お与えくださいって、素直にそんな感じもするけども、与えてもらうものなのか、何かよく分からない。そこら辺のなんていうかな、何となく自分の心が無意識に求めているものと、それを言語化したときのズレみたいのをちょっと何となく感じてたんだね。でも分からない。でもこの強烈な気持ちはある。
だからわたしは実際はそこで言葉にしなかったんです。ウーッて気持ちだけを向けて、「ウ、ウ、ウ……」って感じで(笑)。で、「神よ」とも実は言わなかった。「神よ」っていうのも正しいのかよく分からなかった。正しいかもしれないしちょっと違うのかもしれない。分からなかったから、でもそのイメージというかな、思いだけをぶつけて、「ウウ、ウッ、ウッ、ウッ……」って感じで、こう祈った覚えがある(笑)。
で、その発想って実は大事なんだね。つまり皆さんが例えば教えを学ぶことは大事なわけだけど、教えというのは、何度も言うように実際には言語化不可能な、ある意味抽象というか、抽象でもないんだけど抽象というしかない、概念を超えた真理をこの世に下ろそうとしているものが教えだから。それをまず入り口としては言葉でいくしかないので、言葉でわれわれは受け入れなきゃいけないので、最初は言葉通りでやるのでいいんだけども、でも実際これが示しているものは、もうちょっとわれわれの観念を超えているものなのかもしれないなっていうセンスは必要なんだね。
で、だんだんだから修行というのは真髄に近づけば近づくほど、まあそうですね、初心者とか頭の固い状態ではちょっとわけが分かんなくなってくる。だからまさにその最たるものはバクティであったり、あと密教とかそうですね。密教の表現方法というのは非常に分かりにくい。前にも言ったけどね、顕教と密教という言葉があって、顕教というのは明らかな教えだと。密教というのは秘密の教えだと言われるわけだけど、実際にこれは逆なんだね。逆っていうのは、顕教こそ隠しているんです。なぜ隠しているかというと、ストレートに表わせないから。ストレートに表わしちゃったらわけ分からないから。だから一応つじつま合わせをした教えが顕教です。で、密教は実は明らかにしちゃっているんです、あれは。「もう分かんなくてもいいか」みたいな感じで出しているんだね(笑)。あるいは「勘違いしてもいいか」という感じで出しているのが密教なんだね。だからもちろんそれを秘密にするという意味では密教なんだけど、言われていることは実は密教の方がストレートです。
バクティヨーガも同じですね。バクティヨーガもかなりストレートに真髄に近いことを言っている。でもちょっと固い頭からすると、逆にバクティの方がなんか初心者向けというか、段階が低いように見える場合もあるんだね。でも実は全然違う。
はい、その観点でいうとね、ここで書かれている――ちょっとまた話を戻しますが、「至高者への至高の愛を実現する」。至高者へ至高の愛を向けることこそが――一応言葉にするとね――最高であり、われわれの目的であり、あるいはわれわれが為すべき価値あることなんだと。
さっきの話に戻すと、もし神様から「お前、何か一個だけ願いを叶えてあげよう」と言われたらね、「あなたへの完全なる愛をお与えください」と、こう祈ればいい。
何かに載ってたけど、ラーマクリシュナ教団のある出家修行者がね、……ブラフマーナンダかな。ブラフマーナンダにイニシエーションを受けたときに、ブラフマーナンダが「さあ、お前の望みを何でも言いなさい」と言ったときがあってね。そのときにその弟子が言ったのは、「すべての魂を愛せるようにしてください」って願ったんだね。つまり彼は人に対する批判心とか嫌悪とかで悩んでわけだね。だから、「これからわたしがすべての魂をネガティブな意識で一切見ることなく、愛せるようにしてください」と願った。で、まあブラフマーナンダもそれに対して祝福を与えたという話がある。これはまた別系統ですけどね。でもこれはこれで素晴らしい。これはどちらかというと菩薩行の方に重点を置いた考えですけど。でもこれはまだ分かりやすいね。でも「神への完全な愛をお与えください」――これはなんか一見分かりにくい感じがするんですね。つまり「愛をお与えくださいって何なんだろう?」という感じがする。なんて言うのかな、「わたしにあなたの愛をお与えください」なら分かるんだけど(笑)、「わたしがあなたを完全に愛せる状態をお与えください」って(笑)、何かよく分からない感じがするんだけど、でもこれは素晴らしいです。別の言い方をすると、もし本当の意味での完全な神への愛というのをわれわれが得られたとしたら、それはすべてを得たのと同じであると。
で、これは一つのワードとして皆さん頭に入れておいてください。神への完全なる愛をわれわれは得るべきというかな、得なきゃいけないというか。それが最高の一つのキーであるというかな。
ちょっとそれは置いといて――置いておいてっていうかその究極の意味は置いておいて、もうちょっと日常的なことにちょっと戻していうとね、もっと簡潔に言えばさ、例えばこれはプレーマーナンダの教えとしてありますけど、プレーマーナンダの教えとして、「あなたの頭を神でいっぱいにしなさい」と。「そうすれば自ずと神がそこに祝福を与えてくださる」と。これも別の角度からの今の説明ですね。これは分かりやすい。この教えというのは非常に実践的でもある。これをもうちょっと実践的に言うと、つまり神で頭をいっぱいにする。頭をいっぱいにするっていうのは、つまり普通の意味です。普通の意味っていうのは、ちょうど誰か好きな人がいるとその人で頭がいっぱいなように。あるいはちょっと重要な仕事で今取り組んでいる人はその仕事で頭がいっぱいなように。あるいは明日重大な試合だっていうスポーツマンはそれで頭がいっぱいなようにね(笑)。何かで、つまりわれわれは引っ掛ていることとか、執着していることとかですぐに頭がいっぱいになるわけだけども、常に神で頭をいっぱいにすると。
これもね、この意味ももちろん一番いいのは、例えば神への強烈な愛であるとか、あと神への懺悔の心とか、あるいは神を実現したい、神を悟りたいという強烈な気持ちとか、これで頭いっぱいだったら最高ですね。でもそれは非常に純粋な状態なので、なかなかわれわれはそれをキープすることはできない。たまにそういう気持ちにはなるけども、すぐまた全然違う心が出てきてしまう。だからそれは理想ですけども、それができなかったとしても、次のパターンとしては、形だけでも構わない。形だけでもというのは、神の映像で構わない。あるいはイメージで構わない。なんとなく神のことを常に頭のどこかに置いておく。
これ、よくラーマクリシュナとかいろんな人が面白い例えをよくしているけど、例えば虫歯のように、すごい虫歯が痛いときっていうのは普通に仕事とかしているんだけど、いつもここに意識があるって言うか(笑)、そんな感じ。何してても、つまり心が全然別のことを考えてたとしても、これだけはちょっと外れないというかな――という感じで神を思えたら、それは素晴らしい修行になる。
で、これを更にもうちょっと実際的な感じにしているのが、ジャパです。つまり、「え? 神もイメージできない? じゃあとりあえず名前だけは唱えろ」と。これだけはできるかもしれない。例えば「ラームラームラムラムラム……」とね。「クリシュナクリシュナクリシュナ……」と。「シヴァシヴァシヴァ……」と。これはもしかすると「それもできませんよ」という人がいるかもしれないけど、そんなことはありません。これはできます。なぜかっていうと、これはマントラも同じですけども、皆さん経験あるだろうけど、ある程度、最初はちょっと慣れないけどずーっと唱えていると、結構リピートするんだね。簡単になってくる、だんだん唱えるのが。それでいっぱいにすると。
このジャパっていうのは、当然バクティヨーガの修行の重要なポイントの一つなんだけど、これもバクティ系の聖者方はジャパの重要性をすごく言っていますね。これもさっき言ったブラフマーナンダとかも、途切れない――まあ例えば油の流れのように――よく油の流れというのが例えが出るんだけど、油の流れって分かるよね。つまり水だったらバーッと分裂していくけども、油って途切れない。ね。例えば油をグーッてやったときに、チョロチョロとはならないよね。ずーっと一つの流れとしてトロトロとなる。それと同じように、連続したジャパの流れを保てと。つまり何をやっているときも頭ではずうっと繰り返すと。
たださ、現実的な注意をしておくけど――現実的な注意ね。現代では、まあここでは皆さんも――昔はさ、ジャパって数珠でやってたわけですね。数珠で百八回なわけだけど、大体百回として唱えてあれで数えていたわけです。現代ではカウンターがある。あれ便利ですね。現代もマントラたくさん唱えるときとか、よくカウンターでやっている人が多いけども。あれは便利だからいいんだけど、ずーっとジャパを頭で流すといっても、例えば人と話しているときとかね、カチャカチャやっているとか、それは失礼だからさ(笑)。あるいはあと、なんていうかな、ちょっと今思い浮かばないけど、時と場合に応じてね、ちょっとそれは失礼な場合もあるので、カウンターは別にずーっとやらなくもいいですよ。カウンターでできるときはちゃんとカウンターとか数珠とかでやっていいんだけど、そうじゃないときは――そうじゃないときもあるよね、ちょっとそういうのはできないとき。できなかったとしても別に数えなくてもいいので、頭でずーっと流すと。神の名を流し続けると。これはまあなんて言うかな……ある意味誰でもできる修行だね。
だから極論すれば、頭がちょっと変なことを考えていても構わない。構わないっていうのは、もちろんそうじゃない方がいいんだけど、でも頭が変なこと考えててジャパも唱えないのと、変なこと考えててジャパを唱えるのでは、それは唱えた方がいいからね(笑)。それによって自分の中に強固な、連続した――まあイメージもできれば最高ですけども、最低限例えば名前を唱えるとかによって、強固な連続した神とのつながりを保つわけですね。これはだから神を完全に愛するっていうことの一つのステップにはなるんだね。