「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(1)
20120603 「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②
今日は、前回から始まった新しいエッセイ集の最初の『至高のバクティ』の一番最初の「バクティ」っていうところですね。はい、これの前回の続きですね。一○ページ目の「バクティの道の特長は……」っていうところからね、いきましょう。はい、じゃあ読んでいきましょう。
【本文】
バクティの道の特長は、
「至高者にすべての活動をささげること」
と、
「至高者を忘れることは大いなる悲しみである」
ということである。
それはちょうど、ヴラジャのゴーピーたちのように。
はい。まずこの作品はもう一回言うと、『ナーラダバクティスートラ』というのがもとになっています。これは日本ではあまり知られていませんけども、バクティヨーガの中では非常に重要視される聖典の一つですね。
で、バクティヨーガっていうのは実際には、非常に、いつも言うように、とらえどころがないんですね。例えばハタヨーガみたいに、アーサナやって、呼吸法やって、ムドラーやって……っていう、そういう分かりやすい世界ではないので、ポイントがとらえどころがないところがある。で、この作品は『ナーラダバクティスートラ』――つまり聖者ナーラダが説いた教えとされているわけですけども、そのほかにももちろん、例えば『バガヴァッド・ギーター』もそうだし、あるいはラーマクリシュナ系の教えや、ヴィヴェーカーナンダの教えや、さまざまな聖者がいろんな角度からバクティヨーガを説いていますね。ですからそれはいろんなかたちで皆さんが学んで吸収したらいいと思う。これはまあ、一つのバクティの方向性というかな、目安として、この作品も読んでください。
ですからその観点から言うと、ここではこのナーラダが言っているのは、バクティの特長は「至高者にすべての活動をささげること」と「至高者を忘れることは大いなる悲しみである」。これを大いなる特長として挙げているわけですね。
もう一回言うけども、バクティはさまざまな様相があります。だから、ここで出てくるのがすべてだと考えなくていいんですけども、その一つの重要な要素として考えたらいいね。
はい、「至高者にすべての活動をささげる」。そして「至高者を忘れることは大いなる悲しみである」。
はい、まず「至高者にすべての活動をささげる」――これはいつも言ってることですね。自分の――これは『日々修習する聖者の智慧』の中でアーナンダマイー・マーの言葉にもありますけども、自分の人生の――つまり一挙手一投足ね。つまり――こういうふうに例えばお供物を供養しているときだけじゃないですよ(笑)。これはもちろん供養ですけども――じゃなくて自分の人生の……いいですか、身・口・意ね。身・口・意のすべてが、至高者への捧げ物なんだと考える。この考えを忘れないようにする。
だからまた別の言い方をすると、身・口・意の行為プラス、五感の働きね、これもすべて。だからいつも言うように、見るものはすべて至高者への捧げ物であると。あるいは聞く音もすべて捧げ物であって、あるいは自分の行動自体が捧げ物であると。あるいはもちろん心に浮かぶ思いもすべて供物であると。あるいは言葉もそうであると。で、これをやっていると当然、けがれた行為はできなくなるんだね。あるいはけがれた感覚的経験もできなくなる。だって捧げなきゃいけないんだから(笑)。
で、ちょっとリアルに言いますよ。リアルに言うと、これをやっていると、これをやろうとすると、まずね、ちょっとぶつかり合いが起きます、エゴと。なんでかっていうと、全部捧げ物にするということは、今言ったように、汚い物は捧げられないですよね。ということは、これをリアルにやろうとすると、一瞬もけがれた思いを持ってはいけないと。あるいは一瞬も、一日一回も、「これは捧げられない」っていうようなけがれた行ないや、あるいは言葉を発してはいけないっていうことになるね。でも、まだ修行の初期の段階だと、それにエゴが抵抗する。つまり「無理である」と(笑)。無理であるっていうのは、そうは言ってもやっぱりけがれた――まあけがれたっていうかな、捧げるようなもんじゃない経験も自分ではしたがるし、あるいは、心もまだエゴを肯定するような部分がとても多いと。だから「駄目だ」と言っても、「捧げられない」と言っても、けがれた部分が人生の中でかなりあると。
で、ここでだからと言って、捧げるのをやめてはいけない。つまり、ここで発想として「いや、わたしけがれがいっぱいあるから、そのけがれを修習しているときは捧げない」――この発想もあるんだけど、それは駄目です。ベースとして全部捧げる、これを大前提にしてください。これは外せない。
だから変な話、けがれっていうとなかなか例として挙げにくいんだけどさ、例えば皆さんが美味しいものを食べたい、これは別にけがれではありません。けがれではないっていうのは、食べ物というのはお供物にできるからね。これはこれで別に構わないね。だからそれはこの間も言ったように、修行として小食にするというのは素晴らしいことなんだけども、もしどうしても食べたい物があったら、別にそれはまあ食べればいい。で、供養に結び付ければいいね。それはけがれじゃないんだけど――まあ、なかなかけがれの例って挙げにくいんですけども。だからちょっと、いつもワンパターンになってしまうけど、じゃあまたパチンコにしましょう(笑)。パチンコ。いつもパチンコの話ばっかりしてるけど(笑)。
例えばある人が、例えばY君がどうしてもパチンコやめられないとしてね。パチンコとかギャンブルっていうのは、やっぱり常習性があるからね。はまってしまうと例えばやめられないというパターンがある。で、これは一つの例ですけどね、はまっていたとして、でもこの教えを学んだと。「あ、そうだ」と。「すべてを二四時間捧げ物だから、わたしは」――パチンコなんてもちろん捧げられないと。パチンコ……あのひどい音の中でみんながこう、「金、金、金……」(笑)、「出ろ、出ろ、出ろ……」とか言っているその中で(笑)、自分もそれにアーッてはまっていると(笑)。これを捧げるというのは、ちょっと身・口・意において無理であると。しかし捧げるのは大前提。「じゃあパチンコやめるか?」「いや、やめられない」と。「どうしても今のわたしはやめられないんだ」と。構いません。それはやってください。やめられない場合はね。で、それを、本当は捧げちゃいけないようなもんですけども、でも捧げてください。パチンコやっている。それを捧げる。これをやっていると、当然ねえ、途中からちょっと「さすがにまずいな」という思いが出てきます(笑)。「さすがにまずいな」って思いが少しずつ増えてきて、ブレーキが掛かります。だからそれをやってください。だから逆にこれをスパッと、「いや、私は今けがれているから捧げられません」とやっちゃうと、全然、自分の心が罪悪感が生じないから、全然手術にならないんだね。
だからもう一回言うけども、どうしてもけがれを捨てられない――これはオッケーです。オッケーなので、それも含めて捧げてください。それをやっているうちに、アーナンダマイー・マーの教えにもあるように、だんだんだんだん「やっぱり捧げらんないな」っていう気持ちが強くなってきて、だんだん落ちていきます、そういったけがれの部分がね。だからこれはもう、素晴らしい修行になる。今言ったのは非常に実践的な話ですけどね。
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