「解説『母なる神』」第六回(2)
はい、それでここに書いてあるように、「あらゆる曖昧な影響やあらゆる神的ならざる影響の手の内に易々と下るのは、活力なき受動性によるものである」と。
つまりこれはみなさん分かると思うけどさ、修行とかあるいは宗教とかあるいは信仰って、はっきり言って――あるいはスピリチュアルとかもそうだけど、はっきり言ってね、曖昧ですよね(笑)。非常に曖昧だよね。物理的な世界じゃないし、あるいは目に見える数学的な世界でもないから、なんか曖昧ですよね。だから世の中に、世界中に、もちろんヨーガをやってる人、仏教をやっている人、あるいはもっと広くいえばスピリチュアル、精神世界に足を踏み入れてる人がたくさんいるわけだけども、なんか基準がないよね。例えばヨーガで言ったらさ、いつも言うように、ヨーガの何とかアライアンス何百時間達成、なんて、あんなの何の基準にもならないからね(笑)。あれはただの、なんていうか商業的なものだから。そういう例えばライセンス持ってたって、何の基準にもならない。じゃあなんなんだってなるけども、まあそれはもちろん教え――今日言ったことも含めて、さまざまな定義はあるわけですけども、それに自分が達してるのか、もしくは自分がそのようなマイナス面を持ってるのかっていうのは非常に分かりづらい部分。で、そこで、ここで書いてある「あらゆる曖昧な影響やあらゆる神的ならざる影響」って書いてあるけども、つまり曖昧な――なんていうかな、実際にはエゴが増大してるだけなのに、自分は精神的な修行が進んでいるように思ってしまうとか、あるいは「神的ならざる影響」って、これはまあ。現実的に言ってしまうと――まあそうですね、皆さんも分かると思うけど、現代――そうだな、ヨーガとか仏教も含めて、スピリチュアルといわれる、あるいは精神世界といわれる――まあそういうコーナーも今本屋とかにいっぱい多いけども、ほとんどは低級霊、つまり低い霊的世界の影響下にあると考えたらいい。それがね、なんていうかな、あまりにもそれがスタンダードになちゃってるから、もう分かんないんだね。つまり例えばある本を取ってね、「あ! これ低級霊だ!」――こんなんじゃないんですよ(笑)。
(一同笑)
なんでかっていうと、ほとんどそうだから(笑)。普通がそうだから。普通がそうっていうのは――まあ言ってみればさ、皆さんが――そうだな、低級霊の定義って厳しいんです、実は。何が厳しいかっていうと、例えば皆さんが霊的な力を使って現世的なお祈りを叶えようとしたら、もう低級霊です。低級霊のカルマっていうかな。だからそういうのをお釈迦様は戒めているよね。なんでかっていうと、低級霊の定義は、まず欲望の世界であると。そして霊的世界であると。この二つがリンクすると低級霊なんだね。だからわれわれが霊的な力で欲望を叶えようとするとそれは――ここで低級霊っていってるのは、高級な、つまり神聖な神とか、あるいは至高者までいかなくても、われわれを導いてくれる高い神とかに比べたら低級って意味であって、実際にはレベルでいったら人間より上の低級霊もいるかもしれないよ。つまり神聖ではないって意味ですね。だから魔術的な霊とかもそうだし、われわれを解脱やあるいは神の世界やバクティの世界や菩薩の世界に導かない、どよーんとした欲望の霊っていうかな。それで現代の精神世界はかなり覆われている。表面上はヨーガやあるいは仏教の神聖な言葉を使ってるんだけど、実際にはわれわれの煩悩を満たし、エゴをくすぐり、という世界がかなり多いわけですね。かなり多いというかほとんどです。
で、もう一回言うけども、われわれも真剣にヨーガや仏教を学ぼうとしてながらも、やっぱりこういう影響を受けがちになるんだね。自分では誠実なつもりでも、実際にはエゴが増大してたり、プライドが増大してたりってなりやすいと。で、もちろん人のことはどうでもいい。ね。周りでそういう人がいるかもしれないけど、それを批判してもしょうがない。じゃなくて、自分のことを見つめて、自分が「さあわたしは本当に誠実かな? ずれてないかな? 『神、神』と言いながら、欲望の魔的な世界に足を引きずり込まれてないかな?」っていうのを常にチェックして進まなきゃいけないんですね。
でもここで言ってるのは、まあちょっと大まかな話になるけども――この「活力なき受動性」ではなくて、強い活力を持った、そして――シヴァ―ナンダも言うように、「精神世界というのは、あるいはヨーガの道っていうのは、バラ色の道ではない」と。「茨の道である」と。「だから強い心と強い心身を持たないとやってけない」って言ってるわけだけど――つまりそういう覚悟を持って進むならば――ちょっと大まかな言い方ですけどね――そうするならば、そのような神的ならざる魔的な影響やあるいは低い霊的な影響や、あるいは曖昧な、道を誤る影響に落ちることはないよと。
でもこの言い方もちょっと曖昧なんだけどね。だから結局ね、言葉ではわれわれは解放されない。言葉ってあくまでも補助的なものであって――やっぱりなんていうか、結局最後は精神論になっちゃうんだけど、あの……やる気です(笑)。ラーマクリシュナの言葉を使うなら、「熱意」です。
っていうのは、われわれが本当に本当の心から、「わたしは神と合一したいんだ」と。あるいは「神のしもべになりたいんだ」と。あるいは「本当の意味で真理を知りたいんだ」と。あるいは「バクティを達成したいんだ」という強い思いがあったら、やっぱりいろんな誤魔化しとかって、淘汰されていくはずなんだね。淘汰されていくっていうか、自分の中でどんどん落ちていく。で、例えばこういう話を読んでも、「あ、そうだ!」と。わたしの中にまだまだそのような弱い部分があると。だから本当の意味での力強い従順になれてないんじゃないかと。うん。で、その部分はちゃんと自分で分析してね、あるいは自分自身を念正智して、乗り越えようという気持ちになるはずですね。だからこの辺はちょっとさらっと書いてあるけども、実際にはなかなか難しいっていうか、なかなか微妙な問題なんだね。
もう一回言うよ――われわれはこの精神世界を歩む場合、修行の世界を歩む場合、非常にこの世界ってとらえどころがないから。とらどころがないっていうのは、つまり何度も言うように、かたちがない。例えば営業だったらさ、「今週十件取ってきました」――かたちあるよね(笑)。「ああ、みんな七件が平均なのに、おまえ十件取ったのか。貢献してる」と。これ明らかだよね(笑)。でもこの世界においては、どれだけ「力強い従順」が達成されてるかってのは――まあもちろんね、目に見える場合もあるよ。目に見える場合もあるけども、実際には分かりにくい部分がある。で、特に自分のことって分かりにくい。だから何度も言うけども、自分に対してはシビアに。
皆さん一つの原則として――今日も最初の方で「人を許しなさい」ってあったけども――人にやさしく、自分にはシビアになってくださいね。逆は駄目ですよ。逆の人って多いから(笑)。人にシビアで、「それ駄目じゃないですか!」って言って(笑)、自分には甘いっていう人結構多いけど、それ駄目ですよ(笑)。自分にシビアに、ね。そして人には優しくと。あるいは人には寛容に。でも自分には、何度も言うけども、シビアでなきゃいけない。
シビアにシビアに――それは自分のためだからね。――シビアにシビアに、さあ自分は――何度も言うけども――「エゴの欺瞞にやられてないかな?」と。「本当の意味での力強い従順、本当の意味での誠実な信っていうのが持ててるかな?」と。そういうのを常に自問自答する必要があるね。