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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第9回(3)

◎異性への愛欲のデメリット①――スワーディシュターナ・チャクラにエネルギーが集中する

 で、この厳しい邪淫に関して、ここでシャーンティデーヴァは引用して述べてるわけだけども、じゃあその意味はなんなんだっていうのをちょっと考えてみましょう。
 あのね、これは道徳的な問題ではもちろんありません。道徳的な問題じゃないっていうのは、これを道徳的に考えてしまうと逆に勘違いする。つまり、道徳的にちょっとこう、性っていうものは、つまりセックス的なものっていうのは、ちょっとわれわれの中に罪悪感みたいなものがある。それを道徳的にとらえてしまうと、ちょっと現代でもよくアメリカとか、インドとかでも一部ある、ちょっと間違ったタントラみたいなのに走ってしまう。間違ったタントラの人っていうのは、「いや、性がけがれてるとか、性的なものがよくないっていうのはそれは観念である」と。「だからすべては善悪はないんだ」みたいな感じで性的なものでオープンになるタイプのヨーガっていうかな、タントラをやる人とかよくいるけども、これはだから邪淫の意味合いを取り違えてる。そんな道徳的な、観念的な問題じゃないです。もっと、ある意味物理的というか、ある意味エネルギー的な問題なんだね。その一つはですよ。
 まず一つ目としていうと、つまり邪淫のデメリット――まあ邪淫のデメリットっていうよりも、性的な、もしくは異性間の恋愛も含めてね、そういったもののデメリット。これはラーマクリシュナももちろん同じこと言ってますよね。ラーマクリシュナの口癖は、「女と金」。ね。「女と金」。まあ実際これは女というよりはカーミニーっていう言葉なんですけど、カーミニーって直訳すると「愛欲の女」みたいな感じなるんだけど。つまり「愛欲」っていうことですね。「愛欲とお金」――これに対する心のとらわれがね、ゼロにならないかぎり、神は悟れないって言ってるわけですね。
 で、これはなぜなんだっていうことになる。そのまず第一番目は、まあ分かると思いますが、われわれが異性とか、あるいは性欲といったものにとらわれたときっていうのは、エネルギー的にこのスワーディシュターナ・チャクラにエネルギーが集中するわけですね。エネルギーが集中して、そしてそのデータっていうのはもちろんけがれたものだから、そのスワーディシュターナ・チャクラが詰まる状態になります。で、これがまさに――まあここにもいろいろ書かれてますけども、例えば「正しい道から遠ざかせ、さまよわせる。謙虚さは奪われ、精神的な目は損なわれる。」あるいは、「日常においても動物のような行動をし、人々に迷惑をかける。」あるいは、「ブッダ・ダルマ・サンガに対する信仰が衰える」と。つまりこういったことっていうのは、このスワーディシュターナ・チャクラの性質なんです。
 これはみんなにもいつも言ってるけど、スワーディシュターナ・チャクラっていうのは一つはね、疑念が非常に出ます。疑念。疑念っていうのは、まあさっきのバラタとかとは全く逆でね。「え? 神なんて……」とかね(笑)。「修行って意味あるの?」とかね。あるいは「あの人、本当に聖者なの?」とかね。あるいは「うちの師匠って、本当についていっていいのかな?」とかね。つまりね、いつも言ってるけどね、皆さんは自分の心ってすごく信じてるけども、皆さんの心なんてものは、非常に薄っぺらくてあやふやです。それよりもね、皆さんはね、エネルギーに動かされてます。エネルギーがいい状態になったときっていうのは、心がフワーッて晴れて、もう純粋な信仰とか、純粋な愛とかにこう包まれるわけですね。で、逆にエネルギーがこのスワーディシュターナ・チャクラにグッと固定されてしまったときっていうのは、例えばだけど、一つは疑念が出る。で、まず疑念が出ます。疑念っていうのは、神聖なものに対する疑いであるとか、それを拒否するみたいな気持ちが出る。で、それに後から、後付けで理由を乗っけるんです。「こうだからちょっと信じられないな」とかね。じゃないんです。こうだから信じられないんじゃなくて、エネルギー的に悪い状態だから、まず疑念が出てるんです。ね(笑)。それに自分で勝手にこう、論理的にいろいろ理由を乗っけてるだけなんだね。だからここにエネルギーが集中してしまうと、われわれは高い世界とか、あるいは絶対なるものから遠ざかってしまう。心がそれを拒否するような状態になっちゃうんだね。
 それから動物的要素が強まるので、まあいつも言ってるように、スワーディシュターナの要素である、例えば怠惰さであるとか、つまりなんでもいろんなものから逃げたくなる。あるいはいろんなものをもう、中途半端で、もうどうでもよくなってしまうっていうか。あるいは何かを貫くっていうことができなくなってしまう。「もういいんじゃない?」みたいな感じで(笑)。あるいはもう徹底的に、なんていうかな、いろんなものに依存したがるっていうか。あの、依存の対象が神だったらいいんだけど、そうじゃなくて、現世的なもの、もしくは一時的に自分を安らがせてくれる、一時的に、まあなんとかまあ今を取り繕うことができるような儚いものに依存したがってしまう。もう本当にその場しのぎの心の状態になってしまうんだね。
 で、これがすべてスワーディシュターナの性質なので、われわれのその意識が――まあつまり何をきっかけにスワーディシュターナに落ちたかになるわけだけども、われわれが例えば性的なもの、あるいは異性との恋愛とか、そういったものにとらわれると、エネルギーがスワーディシュターナに集中しますよと。それによってスワーディシュターナが持ってる、さまざまな非真理的な――つまりスワーディシュターナのことを一言でもし言い表わすならば「無智」だから。ね(笑)。無智。無智っていうのは真理っていうものに対する逆の暗闇の働きですから。真理というものをさまざまな意味で、こう、われわれから遠ざけてしまう、あるいは覆ってしまうようなエネルギー、あるいは心の働きが、このスワーディシュターナで増大するんだね。
 だからもう一回言うと、決して性的なもの、あるいは異性へ心を向けてはいけない、あるいはそういうのに耽ってはいけないっていうのは、道徳的観念ではない。まず第一に言うと、エネルギーがスワーディシュターナに集中しますよと。それによってスワーディシュターナの持ってるさまざまな非真理的な要素がドワーッて出ますよと。それは大変不利益ですよっていうのが一つあるんだね。

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