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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(3)

◎慈愛を極め尽くす

 じゃあ、ちょっと話を戻すけど、じゃあどうすりゃいいんだと。結局のところこの、いろんなこと言われているこの菩薩道、もしくは「サマンタバドラの行」っていうものを修めるにはどうしたらいいんだと。
 「サマンタバドラの行」に関してはもう一回、ちょっとあとで勉強しますが、でも、この「サマンタバドラの行」、菩薩道、一言で言っちゃえば結局のところは、まあ四無量心ですね。うん。
 この四無量心っていうのは皆さん知ってのとおり、菩薩道どころか原始仏教にも出てくるし、それから『ヨーガ・スートラ』にも出てくる。つまり真理の要となる教えだね。まあ結局は四無量心だと。
 いろんな大乗仏教のタームというかな、語彙があります。あるいは原始仏教にも密教にもさまざまな要素があると。でもそれは全部を学問的に勉強する必要はない。結局、実践すべきは四無量心であると。
 この四無量心っていうのは――もう一回ちょっと言いますよ。まず第一は慈愛であると。言葉にすると簡単ですけどね。つまりすべての衆生の幸福を願うと。心から幸福を願うと。つまりこれは逆に言うと、誰一人嫌悪してはいけない。誰一人ネガティブな意識を発してはいけない。全員ですよ。もう一人でも例外が出たらもうアウト。それは慈愛にもちろんならない。すべての衆生の幸福を願う。
 結局、仏教あるいはヨーガの教えというのは、一つ一つはシンプルです。それをどれだけ真剣に極めるかなんだね。だから、皆さんが学者になりたかったら、いろんなたくさん本を読んで、いろんな用語やいろんな教義を頭に入れればいいけども、そうじゃなくて本当に道を極めたいんだったら、特にその中心点となっている教えを自分のものとする。あるいはここの言い方でいうと、極め尽くす。だからまず第一としてやはり慈愛を極め尽くさなきゃいけない。
 慈愛を極め尽すって、もう一回言うよ。もうちょっと柔らかい言い方をすると――わたしももちろん修行歴長いから、今までも何度も自分に当てはめてね、この慈愛についていろいろ考えたり瞑想したりした、その経験を含めて言うと――あの、よく仏教の伝統では「母なる衆生」っていう言い方をするね。いつも言っているけどさ、仏教にしろヨーガにしろ皆さんは、ある程度は伝統には従う必要がある。伝統には従う必要があるけど、ただあまりガチガチに伝統オンリーになる必要はない。っていうのはやっぱり時代が違うからね。現代ではわたしね、自分も含めて、あるいはみんなに教えをこう与えたときの経験でも、「母なる衆生」という言い方はちょっと弱いかなって感じがする、逆に。そんなに今結びつき強くないから。家族とかの結びつきとかね。だから、もちろん「母なる衆生」でピンとくる人はそれでいいんですけど、もうちょっと――まあいろんな言い方があっていいんですけども、わたしの好きな表現としてはね、「大親友」。うん。これは一つピンとくるね。大親友。つまり、全員大親友(笑)。
 大親友だったらさ――皆さん、大親友と言える人がいるかもしれないし、いないかもしれない。いる人はその人を思い浮かべればいい。いない人はもちろん架空でいいです。架空の存在として――大親友っていう一つの、なんというかな、考え方がありますよね。大親友。つまり「こいつとは大親友だ」と。「もうこいつのためなら命も捨てられる」ぐらいのね、そういう大親友です。「こいつの幸福のためだったらおれは犠牲になってもいい」と。「なんでもしてあげたい」っていう大親友。
 もちろんこれを、それぞれの性格によってね、よくいわれる「ひとり子」という言い方でもいいし、あるいは「お母さん」でもいいんですけど。まあここでは大親友として言うよ。「大親友である」と。で、全員そうだと。この世の衆生っていうのは――まあそれにはいろんな、自分を納得させるためにいろいろ入れてもいいよ。例えば「何度も生まれ変わっているうちに、いろいろわたしは恩を受けたんだ」とやってもいいけけども、まあそんなのなくてもいい。とにかく全員大親友なんだと。
 この世の衆生っていうのは大親友だと。
 われわれは、わたしは、相手のせいではなくて自分の悪しきカルマによって、みんなにいろんな間違った見方をしているだけだと。
 みんなが悪いんじゃないと。
 わたしのカルマが悪いだけだと。
 わたしのカルマが悪いから、みんなが変に見えているだけだと。
 でも本当のことを言うならば、みんな大親友だと。
 魂の大親友であると。
 それは――もう一回言うけども――一人も例外はないと。
 だから本当に、単純に幸福を願うだけじゃなくて、愛しいと。
 愛しいっていうのは普通の愛情ではなくてね、もちろん。普通の愛情ではなくて、つまりその、情緒的な話ではなくて、愛しいと。愛しいっていうのはその――まあそうだな、ここは大親友でもいいし、あるいはよく言われる「ひとり子」みたいな感じでもいいんですけどね。無意識に、その人の幸福のためだったらなんでもしてあげたいっていう存在ね。これが、すべての衆生がそうなんだと。
 で、これと今の現在の自分の心の状態に開きがあっても、それはかまわない。まずその理論なり理想をバッと提示して、で、そうなるように努力する。
 で、日々の自分の人間関係、日々の自分のさまざまな出来事そのものが、それを達成するためにあるんだと。それを、そのギャップを埋めるために、バガヴァーンがね、われわれに与えてくれた一つ一つの試験なんだと。
 だってそういう試験がないと、われわれはただの――何度も言うけど、空想上の、机上の空論の慈愛で終わってしまう。「ああ、慈愛だ慈愛だ」とか言っててね、ちょっと心に触れることがあるともう怒ってしまうと。これでは駄目だよね。だからそれを手術するために、あるいは修正するためにさまざまなかたちで、如来がね、バガヴァーンがわれわれの前に現われてくださって、自分の慈愛のなさを修正してくださっていると。
 ここにはね、全くね、難しい問題はないんです。智慧とか空性を悟るとかは難しいですよね。ちょっとつかみどころがない。「空性ってなんですか?」――皆さんが例えばあの、ナーガールジュナとかの解説をいくら読んだって、空性なんて悟れませんからね。これは概念では、何度も言うけど取っかかりがない。でもこの慈愛の教えは、もうやることは決まっているんです。あとはやりゃあいいってだけだから。「愛せ」ってだけだから。あるいは「幸福を願え」っていうだけだから。あるいは「嫌悪をゼロにしろ」って言っているだけだから。これはもうなんていうか、なんの言い訳もないですよ。例えばY君が「空を悟れない!」って言ったら、まあしょうがないねと。「やっぱりまだこういう基礎もやって、こうしてこうして……こうしないと確かに悟れないね」って言えるけど、「慈愛分かんない!」――これ、言い訳です(笑)。分かんないじゃなくてやれ、と(笑)。ね。つまり自分のエゴが嫌がっているだけであって。
 それをその自分の心に課題として与えてね、まずは――もう一回言うよ――一人の例外もなく、みんなの幸福を願うと。みんなが自分の大親友であるように愛を向けると。これがベースになります。これは菩薩道のベースであるし、それから、さっき言った「サマンタバドラ行」のベースとも言える。
 それからさっき『ヨーガスートラ』にも、あるいは原始仏教にも出てくると言ったけども、例えばね、仏教の教義でいうとこの慈愛の世界っていうのは、いわゆるブラフマー――ブラフマ神の世界ね。つまり梵天の世界。つまり色界の入口なんですね。つまりみんなのためにっていうだけではなくて、当然その自分の魂のステージっていうか、魂がこの迷妄を打ち破って少なくともその色界に手をかけるには、やっぱり慈愛がなきゃ駄目なんです。みんなの幸福を願える、みんなが本当に愛しい、みんなが本当に幸せになってほしいなっていう気持ちがないと、われわれはこの欲界の、欲望の世界の壁を打ち破れないんだね。
 だから単純に、もちろん放棄――つまり自分の煩悩を放棄するっていうのは大事なんだけど、仏教の――そういう意味では仏教の世界観ってすごく分かりやすくていいんですね。世界観イコール目標になるから。
 例えばもう一回言うよ。「梵天の世界、われわれがこの欲望の世界――つまり苦界を超えて、まず色界に手をかけるにはどうしたらいいんですか?」――じゃあその梵天の世界、色界の第一ステージであるブラフマー神の世界を分析すればいい。「これはどういう世界だろう?」と。これは簡単に言うと、慈愛とそれから離欲、つまり欲望を離れた世界。「ああ、じゃあ定義は簡単ですね」と。「欲望を捨てて慈愛を身に付ければいいんだな」。これが梵天の構成要素なんだね。だからわれわれがもし――もう一回言うよ――この苦界――地獄、餓鬼、動物、人間、阿修羅、天という苦界を超えて――まあ皆さんが解脱を望むにしろ、あるいは菩薩道を望むにしろ、この苦界を越えなきゃいけない。越えてこの色界に手をかけるには、まずは自分のエゴ、欲望の放棄っていう一つの道と、それから自分以外の他者に対する例外なき慈愛ね。この慈愛の強さは別として。例外なき慈愛、これを身に付けると。で、それをより高めていくっていうかな。これが第一の実践項目になる。

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