「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(4)
◎飽くなき求道心
はい、そしてもう一つ、四番目が、「法を求めることにおいてこれで良いと満足しないこと。」
まあ、これはこのとおりですね。つまり希求心、求道心ってやつだね。つまりここでいう法を求めるっていうのは、別にいろんな経典を探すっていう意味ではない。真理とは何かっていうことです、単純に言うとね。あるいはもちろん、いろんな言い方ができるよ。「神とは何か?」でもいい。あるいは「悟りとは何か?」でもいい。つまりこの、なんていうかな、皆さんの心の奥にある、真髄を求める気持ちがあると思うんだね。皆さんは一応、例えば表面上ヨーガに出合った、あるいは仏教に出合った、で、その教えに出合いました――でも本当の意味って分かってないでしょ?
わたしも、何度か言ったけど、昔、高校生くらいの思い出で――いつも言うように中学生ぐらいからヨーガ修行をわたしはやってたんですが、高校生くらいのときにいろんな神秘体験が始まったんだね。例えば全身が光になるとかね。あるいは瞑想空間がもう無限に広がるとかね。あるいはさまざまな梵字みたいのがいろいろ見えてくるとか、チャクラが見えてくるとか、いろんな神秘体験の渦に巻き込まれたときがあった。で、前から言っているけど、その一つ一つがですよ、まあかなり強烈でした。かなり強烈っていうのは、そうですね、例えば普通にヨーガやっている先生とかでは、たぶん誰も経験したことないような経験ばっかりだった。で、もしわたしがその時点で、そうだな、あまり前生からの修行経験とかがないような器の狭い人だったら、たぶんそこで修行終わってたかもしれない。「すべてをわたしは得た」と(笑)。「わたしはすべてを知った」とか言ってなんか宗教でも作ってたかもしれない(笑)、その時点でね。高校生の時点でね。でもわたしはそういう気持ちになれなかった。なぜかっていうと、確かに経験はすごい。なんかすごい、もうなんていうかな、ある意味――経験はすごいっていうのはさ、例えばいつも引き合いに出す、意識が広がる経験ね。これディヤーナっていうんですけども、これ本当にすごい経験なんです。本当にすごいっていうのは、観念がぶち壊れる経験だからね。不思議な、なんともいえないんだけども、なんかね、例えば意識が広がるとするよね。まず意識がだんだん広がっていく――これくらいまではまだね、皆さん経験する可能性あるかもしれない。でもこの――なんて言ったらいいのかな、無意識に、いつもは感じてないんですけども、意識の壁ってあるんです。うん。つまりいつもはそんなこと認識してないけども、限界の壁みたいのがあるんだね。あの、この辺じゃないですよ。もうはるか遠くですよ(笑)。はるか遠くに意識の壁みたいのがあって。世界の壁っていうかな。無意識に設けている世界の壁みたいのがあるんだけど。まあこれはもしかするとエゴの壁なのかもしれないけど。で、それ以上に意識が行っちゃうんです。これはちょっと観念の崩壊的な経験なんだね。「え!?」って感じで。「なんだこりゃあ!」って感じで。だから単純になんか光が見えましたとかいう世界じゃなくて、自分の観念が物理的にぶち壊されたみたいな経験。で、こういう経験自体はすごいので、うおーって感じになるんだけども。「おお!」って感じになって、表層の頭で考えるんだね。表層の頭で「今のすごくね?」と。ね(笑)。まあ自分に言っているんだけど(笑)。
(一同笑)
「今のすごくね?」と。「ありえないよね」と。しかもいろいろ見ると経典にもそういうの書いてあったりする。「これすごいよね」と。「おれ達成しちゃった?」みたいなのがあるわけだけど、でもそんな気持ちになれない。なぜかっていうと、それはただの体験であって、何もわたしはつかんでいないと。心も何も変わっていない。昨日のままの、普通の高校生の心しかなくて。で、なんか宇宙の真髄を本当の意味で知ったわけでもない。
つまり何を言いたいかっていうと、求めているレベルの違いなんだね。わたしがだから、もともと無意識に求めていたのは、完璧な――まあつまり仏教でいう「全智」ってやつですね。パーフェクトな智慧。つまり、思索とか想像とかあるいは理解とかじゃなくて、完全にその宇宙の真理そのものをパッとつかんだ状態ね。それを一つの目標としてたわけですけども。それからいったら、ただ意識が広がったとかね、光が見えたとか、体が光になったってなんなんだって世界なんだね。あるいはちょっと昔分かんなかった経典が分かるようになったとかね。ああ、こういう意味だったのか――こんなのなんだっていう話なんです。全然ね。だからそういう意味で、求め続けるっていうかな。
例えばその進歩を喜ぶのはもちろんいいんですよ。修行が進んできて――わたしもよくこういう喜びの報告とか聞くことあるけども――例えば、「前は分からなかったこの経典が分かるようになりました」と。これは素晴らしいね。ああ、良かったですねと。でもそれで満足しない。だからなんだと。前よりも智性が高まったっていう意味ではいいことですけども、まだそれは自分の求めている状態からすると全然まだまだだと。
で、もっと言えばさ、さっきの小乗の話じゃないけども、ある意味、あるレベルの例えばニルヴァーナでもいいけども、それをつかんでも終わりじゃないんだね。つかんだとしても、大乗の菩薩道からしたら全然まだまだだと。その全智の境地、完全な仏陀の境地からしたら全然まだまだだと。このような思いで進むんだね。
だからそういう意味では皆さんは最初から、なんていうかな、まあある程度の目の前の目標は持つとしても、最終目標は高く置いておいた方がいい。うん。つまり完全な如来です。ね。あるいは完全な、完成者をまず目指すと。もちろんその背景には何度も言うように、「みんなのために、縁ある衆生の役に立つようになるためには、わたしは中途半端な修行者じゃなくて完全な完成者になんなきゃいけないんだと」。
その大いなる志を持つとね、まずね、第一段階で、日々の小さな悩みとかどうでもよくなります。あるいは日々の小さな障害とか苦悩は結構どうでもよくなります。そんなこと言っている場合じゃなくなってくるから。早くわたしは完全な境地に至らなきゃいけない。それからいったら今の、なんていうかこう、目の前のね、小さないろんなカルマから生じる、自分のカルマから生じるね、苦悩なんていうのはもう早く乗り越えなきゃいけない問題であって。まあまだ苦しかったとしても、あまりそこに目を置くことじゃないっていうかな。それはどうでもいいっていう話になってくるんだね。じゃなくて、さあ早くまず第一の達成をすると。第一の達成をしたらすぐに第二の達成を目指すと。第三の達成を目指すという感じで飽くなき追求が必要なんだね。
はい、この飽くなき求道心――もちろん何度も言うけども、背景には、早くみんなのためになれるように、早くみんな――あるいは逆の観点から言うと、早く純粋な神の道具になれるように、神の道具として自分の人生を使っていただけるようになれるように、飽くなき追求をすると。これで終わりだと決して思わない。永遠の終わりなき修行をし続けると。あるいは永遠の終わりなき追求をし続けるっていうことですね。はい。これが四つ目の「法を求めることにおいてこれでよいと満足しない」と。
はい、この四つをしっかりと具足する。つまり、何度も言いますが、自分のベースにするっていうかな、完全に自分の考え方や行動のベースにこの四つを置くと。
この四つっていうのは、今の説明で分かるように、全部つながっているっていえばつながっているね。
つまり、みんなのためになりたいと。
自分のことはどうでもいいと。
そしてみんなのためになるとしたら、今苦しんでいるみんながかわいそうでしょうがないと。
そのために自分を鍛えなきゃいけないわけだけど、それに終わりなき、飽くなき追求をし続けるっていうことですね。
はい。これが菩薩の、あるいは正法を自分の血肉とするための、まあ四つの法だっていうことですね。
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