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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(3)

◎大悲の心

 はい、三番目。これもまあ関係してくる話ですが、「大悲の心を持つ」と。「大悲」、つまり大いなる哀れみ。これもまあちょっと簡潔に定義すると、まあよく「大慈大悲」っていうわけですが、「大慈」、これは大いなる慈愛ね。で、哀れみは――あ、まず慈愛について言うと、この「大いなる慈愛」、これは簡単に言うと、みんな幸福になってほしいっていう気持ちです。「みんな幸福になって欲しい」――で、そのみんなっていうのはもちろん、一人の例外もなくみんなっていうことです。で、幸福っていう意味も中途半端な幸福ではなくて、完全な悟りや解脱の安らぎを得て欲しいと。これが一番目の慈愛っていう気持ちですね。
 で、二番目のこの「大悲」――大いなる悲しみって書きますが、哀れみですね。大いなる悲しみ、哀れみ。これは逆に、みんな幸福になってほしいっていう慈愛を前提としてあるわけだけど、みんな幸福になってほしいと思っているのに、現状を見るとみんな悲惨であると。ここからくる悲しみなんだね。みんな幸福になってほしいな、と思ってフッとみんなを見ると、悲惨であると。
 この悲惨であるっていうのは、二つ意味があります。一つは本当に悲惨であると。本当に悲惨っていうのは、例えば地獄なんかはもちろん悲惨ですよね。地獄で日々、肉体的にあるいは精神的に苦しみにのたうち回っている、かつてのわたしの友がいっぱいいると。あるいは動物界を見たら、かつてのわたしの友が動物に今なって、雨風にさらされ、あるいは無智になっちゃって、高い教えのことも分かんなくなっていると。あるいは非常に低級なっていうかな、粗雑な快楽を追い求める人生だけになってしまってると。これは非常に哀れであると。あるいはもちろん、餓鬼の世界ね、低級霊の世界でうめき苦しみながら、こう浮遊しているかつての友がたくさんいると。こういうその直接的な苦しみってあるね。
 もちろん人間もいっぱいありますよね。日々、街を歩くと分かると思うけども。例えばもちろん肉体的な病気とかで苦しんでいる人もいっぱいいるだろうし、あるいは肉体的は健康だったとしても、精神的に多くの苦悩を持っている人がたくさんいる。まあよく引き合いに出されるように、日本人の自殺っていうのは年々増えていると。これも非常におかしな話でね。つまり、これだけ世界で最も豊かな国の一つになった日本で、これだけ自殺が増えている。つまりその、なんていうかな、物質的な利益の追求や、あるいは物質的な快楽の追求は、あまり実際は、精神的な主観的な幸福とは関係がなかったのかもしれないっていうことですね。心の苦悩で、いろんなレベルで苦しんでる。
 あの、心の苦悩っていうのはさ、結構――結構っていうか、外的状況には実際よらないんだね。外的状況にはよらないっていうのは、結局その幸・不幸を感じるのは心だから。ね。なんかある条件が外的に整ったら絶対これで幸福になるとか、苦しみを感じるっていうのはないんだね。結局要因はこっちなんです。うん。この心の方の問題なんだね。この心が、例えば苦しみのカルマでいっぱいだったら、その人はどういう環境でも苦しいです。あるいは、これはなんでも言えるけどね、例えばすごい文句言っている人がいたとしてね。いつも文句ばっかり言っていると。この人を違う環境に放り込んでも、やっぱり文句言います、絶対にね(笑)。心の問題だから。あるいは嫉妬する人がいたとしたら、その人をほかの環境に入れても嫉妬します。結局は心なんだね。で、この心の苦悩、心のその解決法が分からないがために、多くのわが友たちがこの人間界でも苦しんでいると。そういうのを日々、皆さん見聞きするでしょう。あるいは想像することもできる。そういうのをいっぱい考えて、本当に哀れだと。本当にかわいそうだと。
 しかもですよ、皆さん自分のことに当てはめたらいいと思うけども――よくわたし、皆さんからこういうことを聞いたり、メールもらったりすることがある。それは何かというと、「本当にわたしはこの道に出合えて良かった」と。つまり「ダルマに出合えて、ヨーガに出合えて、仏教に出合って良かった」と。つまりその、「出会えてなかったらゾッとします」と。まあわたしもそういうこと昔よく考えた。「もしわたしがこのような修行とかダルマの道に出合えてなかったらどうしようか」っていうか。もちろんそれは出合えたからそう思えるわけだけど。出合えてなかったら、もうまさに悲惨であったと。で、それが今、多くの人に起きていることなわけだね。つまり出合えていない。その同じ、例えば苦しみがあったとしてもね、例えば同じように周りから批判されるとか、あるいは同じように今自分が病気であるとか、あるいは同じように自分が今貧しいとかあったとしても、自分がダルマを知ってるって状況と、知らないっていう状況では意味が全く違ってくるんだね。で、単純に自分のエゴを守る方向にいくとか、あるいは生じた苦しみをカルマの浄化であるとか、あるいは神の愛であるとかも考えられないだろうから。それは、なんていうかな、ある意味最もかわいそうかもしれない。最も悲惨かもしれない。
 自分に当てはめれば分かるでしょ? 自分がもしそれがなかったらって考えたら、非常に――つまり、なんていうかな、正統な解決法がないわけだからね。誤魔化すか、もしくはちょっとねじ曲がったかたちで、解決したように自分を思い込ませるしかない。その正統な解決方法っていうか、苦しみの、あるいはさまざまな日常の現象の本当の意味とかね。あるいはそこから本当の意味で解放される方法であるとか、それがないままに、いろんな苦悩の中にいるってこと自体が、まあ大変な悲しみであるっていうかな。こういうことを考えなきゃいけない。
 あるいはもうちょっとベースで言うと、これは地獄から始まり人間、そして天の神々を含めて、もう輪廻にいるってこと自体ね。――これはベーシックな話ですけどね。つまりわれわれの本性は、ヨーガでいうならば真我、パラマートマン。で、仏教でいうとまあ、仏性とかね、あるいは如来の本性とか心の本性とかいうわけだけど。そのような自由で完全で満ち足りた、完全な状態がわれわれの本性なんだと。今その本性から外れて、まさに奴隷のように、まさにこの悪魔の牢獄にいるわけですね。で、しかもそれをよく分かっていない。
 自分が牢獄に――つまり自分が本当は真我――まあつまりこれはよく使われる例えとしてはね、素晴らしい王子様が牢獄にいるようなものです。で、しかもそれを気付いていないようなものです。自分が王子だって気付いていない。王子だって気付いてなくて、その牢獄の悲惨な生活に、逆に言うと慣れちゃって、その悲惨な牢獄生活を送っているようなものだね。これをもし王子の大臣たちが見たら、悲しむでしょう。「ああ、王子様、何やってんですか」と。ね。あなたはそんな身分じゃありませんと。あなたの本性は王子なんですと。
 で、こういう感じなんですね。われわれ――あの、本当にその悟った人から見ると、すべての人の本性が――これは地獄から始まり天に至るあらゆる生き物の本性が、光り輝く真我だっていうのが分かる。それなのに、何やってんだって話なんだね。それなのにみんななんでこんな苦しみの世界、偽りの世界に閉じ込められ、しかも甘んじているんだと。ね。この悲しみだね。これが、ちょっとまとめるけども、「大悲」ってやつです。大いなる悲しみ、大いなる哀れみね。この心を常に持ち続ける。
 で、もちろんここから菩提心に移行するわけだね、いつも言うように。とはいえみんな何もやらないから(笑)。ね。「みんなかわいそうだ。なんでみんな本性は完全なる安らぎの真我なのに、なに苦しんでんだ!」って言っても、誰も何も努力しないから。気付かないから。しょうがないからおれがやるしかない、となるんだね。
 しょうがないからおれがやるしかないっていうのは、これはもう一回言うと、二つ意味があります。一つは、いつも言うようにね、みんななんとか救いたいんだけど、今の自分ではどうしようもないから――まあヴィヴェーカーナンダが言ったように、「触れただけでみんなを解脱させられるくらいにまずは自分を高めよう」と。こういう気持ちね。これが一つ。
 で、二番目は、みんなの分まで修行するっていうことです。これはよくラーマクリシュナの弟子たちがそういう言い方してますけども、みんながやらないんだったらおれが二倍やると。ね(笑)。自分で必要な、つまり自分が解脱するに必要な修行の努力の二倍やると。その分みんなが修行しなくていいぐらいにやろうと。こういう意気込みっていうかな。この二つの意味で菩提心ってあるんだね。
 この二つの意味で――あの、つまり現状それしかないから。現状ね、例えば目の前の人が聞き分けのいい人で、「修行しろ」「はい」――これだったら楽だけど(笑)、そんな人いないからね、普通ね。うん。そんな人は普通いない。で、縁のある人はもちろんそれでいいんだけど、自分とは縁があるんだけども、まだ修行するような縁のない人がたくさんいると。その場合はもう自分がやるしかないと。これが大悲、そして菩提心の考え方ですね。
 で、これを、ちょっと話を戻しますが、具足するんです。具足するっていうのは、つまり普段は考えていなくて、いろいろ考えるとそうだなっていうんじゃなくてね、さっきのその日本語の話みたいに、もう普段、それがベースだっていうことですね。いつもそればっか考えていると。いつもみんな幸福であってほしいなと。でもみんな大変なんか今、輪廻の牢獄の中で苦しんでるなと。本当にかわいそうだなと。だから自分が頑張んなきゃなと。その気持ちでいつもいっぱいだっていう状態ね。これが具足ってやつですね。
 だからこれを、さっきのともちょっと絡めると、みんなの幸福をいつも願い、自分のことは、自分の楽なんてどうでもいいと思ってて、で、みんなの苦しみが耐えられないと。だからなんとかしてみんなのためになりたいと。そのために自分を早く浄化しなきゃと。このような気持ちで頭がいっぱいであると。これが具足っていうことですね。

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