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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(9)

◎身命を惜しまずに、正法を希求する

 「身命を惜しまずに、正法を希求する」――ね。つまり単純に言うと、教えは命より大事だっていうことです。われわれはさ、ちょっとこういうこと言うと問題があるかもしれないけど、小さいころからの教育によって、命が一番大事だって教えられちゃってるけども、そんなことはありません。昔は違ったよね。昔の日本っていうのは、当然命より大事なものがいっぱいあった。例えば武士の世界のときもそうだし、あるいは戦争やってるときもそうだけども、命より大事なものっていっぱい規定されてたよね。だってさ、よく考えてみてください。われわれは――われわれっていうか、普通はですよ、普通は、なんで生まれたか、なんで死ぬのか、誰も分からないでしょ? 修行して悟らない限り分かりません。なんで生まれたか、なんで死ぬのか分からないし、しかもですよ、全員死ぬんですよ。全員死にます。なんでそれで命が大事だって言える? もちろんそれぞれがいろんな人生観を持って、いろいろこじつけてるけどね。もちろんわれわれの中に死にたくないっていう気持ちがある。だからそれを正当化して「命は大事だ」って言ってるわけだけど、理論的にはよく分からない。なんで命が大事なの? あの延命とかもそうだよね。もしかすると寿命で今死んだ方が良かったかもしれない人もいるかもしれない。
 わたしももし、不治の病とかにかかって体も動かなくなったら、無理な延命はしたくないね(笑)。パイプつながれてさ――あの、もちろん教えがまだ説けるとかだったらいいけども、全然しゃべれなくて、体も動かなくてね、ベッドでこんな感じで(笑)。それで一年、二年生きたってしょうがない。早く次の救済のところに行った方がいい場合もあるかもしれない。
 なんか、日常においてやっぱりそういった死の問題ってタブー視されるから、ちょっとこうみんな踏み込めないところがあると思うんだけど。でもよく考えたら、生が一番大事なんてことないんだね。命が一番大事なんてことはない。で、何度も言ってるけども、お釈迦様は「真理を実践せずに百年生きたってしょうがない」と。「それよりは真理を実践して、一日生きた方がいい」って言ってる。つまりこの言葉っていうのは詞的に説かれてるから、みんなあまりピンとこないのかもしれないけど、リアルに言うとこういうことですよ――「今日真理を実践したら、あなた死にますよ」と。「でも実践しなかったら百年生きられますよ」と。「でも真理から遠ざかりますよ」と。「どうしますか?」っていう話なんです。それは前者でしょう。当たり前でしょうっていう話なんだね。「今日死ぬとしても真理とりますよ」と。「今日死ぬとしても教えとりますよ」と。
 お釈迦様の前生の話でも――何度も言ってるからちょっと端折るけど、あるよね、その――ある怪物が現われて、教えを説いて、続きを聞きたかったら自分の命を差し出さなきゃいけないっていう場面があってね。そこでお釈迦様は喜んで差し出すんだね。「あ、そんなんでいいんですか」と。「え、わたしの体差し出すだけでいいんですか?」と。「それだけでその最高の真理が聞けるんだったら、ぜひ教えて欲しい」と。で、契約をして、その怪物が教えを説いて。説いたらそのお釈迦様は、「約束どおり、わたしはもうすぐ死ななきゃいけないから」って言って、しばらくその教えの歓喜に浸ってね、「ああ……素晴らしい教えだ!」と。「ああ……!」って歓喜に浸って、で、できるだけそれにみんなが触れられるように、そこら中にその教えを書き留めて、で、約束どおり身を投げるっていう話があるんだね。つまりそれくらい、なんていうかな、教えっていうものが、身命――ちょっとこういうこと言うとあれだけども、命とは比べ物にならないと。われわれが教えに巡り合うこと、教えを手にすること、教えを学べること、教えを実践できることっていうのは、単純に生きるっていうこととは比較にならないってことだっていうことだね。
 まあ、もちろん輪廻転生観があるからね、そもそもね。だから死イコール終わりではないので。またそのような生き方をした人は、より教えと、あるいは聖なる魂や至高者と結びついたかたちで、また生まれるでしょう。だからそこら辺のその、なんていうかな、価値観のトリックに引っかからないようにしたらいいんだね。何よりも大事なものは、誠実に理想を貫くこと。いつもの言い方をするとね。その前には、ほかのものは一切重要ではない。命さえも重要ではない――というぐらいの、気持ちを日々持ったらいいね。

 はい。で、「熱心に道を求め、成就する」。まあこれはこのままですけどね。
 はい。まあだから、前半の方はだいたい教えを広めるっていうことに関してね、そしてその教え自体を、素晴らしい甘露だと思い、そして自分を癒す良薬だと思い、そして何よりも大事な、その教えを命に代えてでも求め続けると。で、実際にそれを成就、達成すると。このようなことを日々考え、生きていたならば、その人は正法を修め取る――つまりダルマというものが、自分とは違うものなんじゃなくて、ダルマそのものになるっていうかな。うん。ダルマを自分の中に――完全に一つになりますよと。浸透しますよっていうことですね。

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