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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第四回(3)

 はい、三番目が、「十万の世界のすべての衆生を暗闇の中に閉じ込めることよりも、菩薩に背を向け、菩薩に従順でなく、彼を見ようともしないことの方が、はるかにその罪は重い」と。
 これも一番目と同じ。つまりここにおいては、あんまり菩薩自身は関係ないよね、ここね。だってこっちがね、例えば自分が菩薩に従順でなかったとしても、背を向けたとしても、菩薩を見ようともしなかったとしても、菩薩自身は別になんの関係もないじゃないですか。そんなこと気付かないかもしれない。だからこれも心の問題です。つまり自分がものすごい聖なる、あるいは偉大な道を歩いてる者に背を向けるとか、あるいは――そうですね、従順でないとか、あるいは見ようともしないとか、その方向性のベクトルを全く違う方向に向けることによって、自分の心っていうかな、魂の方向性がそのような聖なるものからどんどんずれていきますよっていうことですね。これも、もし自分が「この人が聖なる人である」と思ってるんだったら、まあもちろん誰にも従えとは言わないけども、尊重しなきゃいけない。で、これはさっきの軽蔑とかもそうだけども、分かんない場合はね、分かんない場合っていうか――あのさ、分かんない場合っていうのはさ、これはよく、わたしも質問を受けるんだけど、例えば、そうだな、今、いろんなね、例えばチベット系にしろ、インドヨーガ系にしろ、あるいはまあ精神世界系にしろ、いろんなね、崇められてる、例えば聖者って言われてる人とか、あるいは自称マスターと言ってる人とか、あるいは、多くの人に尊敬されてる人がたくさんいると。で、よくその、「いや先生、これこれっていう人がいるんですけど、この人どうなんでしょうね?」って聞いてくる人がいるんだけど、「あなたはその人についていきたいと思うのか?」と。あるいは「すごく興味があって学びたいと思ってるのか?」と。「そうじゃないんだったら、関係がない」と。つまりその、それを浅はかな知識で批判してもいけないし、あるいは浅はかな知識で称賛し過ぎるのもいけないし。っていうのは、分かんないからね。あの、関係があるんだったら別ですよ。関係があるっていうのは、自分がついていこうかどうか迷ってるとかね。そういうときは、しっかりこう調べたりしなきゃいけないかもしれない。でも、そうじゃない場合は、放っとけと。放っとけっていうか、なんていうかな……批判もしなければ、あるいは別に分かんないものに対しては称賛する必要はない。
 素晴らしいものに対しては称賛してあげたらいいよ。例えば、行為に関しては称賛したらいいね。行為に関してはっていうのは、例えばある聖者っていうか、聖者っぽい人がいて、例えばそうですね……多くの寄付を行なってね、難民とかに寄付を行なったと。「ああ、その行為は素晴らしいですね」と。「ああ、それは素晴らしい行為だ」と。でも、それをやったその人が聖者かどうかは分からない。だからそこは保留と。保留っていうか、分かんないから別に手を出す必要がない、そこはね(笑)。考える必要はないっていうか。でもやったこと自体は素晴らしいですよ。
 あるいは別のパターンで言うと、ちょっと一見なんか「えっ、これ悪いことなんじゃない?」っていうことをやってたとして、それは明らかにそれは悪いことだと思ったら、それはまあ「じゃあ、自分はそういうことをやらないようにしよう」と反面教師にすればいい。でも、批判する必要はない。なんでかっていうと、分かんないから。ね。分かんないからっていうのはさ、これも何回も言ってるけどね、物事の本質って本当、分かんないからね。本当分かんないっていうのは、例えばですよ、ちょっと極端な例を挙げればね。極端なことを言えば、例えばワイドショーとかで、なんかすごい事件の犯人とかいたとしてね、その犯人のひどさをものすごい特集してたとするね。それを見た人達は、「ああ、本当にひどいね」と。無智なおばさんとかはね、せんべいとか食いながら「本当もう! 信じられない、この人」と。「もう、こんなやつは地獄に落ちればいいのよ」とか言ってるかもしれない。でも、「お前、知ってんのか?」と。そいつをね。本当分かんないよ。もちろん、例えば殺人を犯したとか、あるいは大泥棒したとか、それ自体は悪いことですよ。現象はね。でも例えば、どういう事情があったのかとか、あるいはどういう心の働きがあったのかとか、あるいは報道されていない、いろんな裏のこともあったのかもしれない。本当分かんないよね? もちろんなかったかもしれないよ。報道通りかもしんないよ。でも、分かんないじゃないですか。だから、分かんないことに対して、われわれはなんていうかな……その現象の善悪を分析するのはいいけども、その人そのものを批判したりとか、あるいは逆に分かんないのにその人そのものをすごく崇拝し過ぎたりとかね――全然関係ない人ですよ。それはまあ、あんまり意味がない。だからそれは放っとくっていうか、手を出さない方がいい。
 だって、さっき言ったようにさ、社会的にちょっと変なふうに言われてる人が、菩薩かもしれないよ、もしかすると。ね。チベットではもちろんそういう例がいっぱいあったっていうんだけど。つまりニョンパっていってね。狂人みたいな菩薩がいっぱいいたんだね。まあ、その人たちは悪いことはしないけども、裸でね、その辺をうろついてたりとか。
 例えばあの――有名なある菩薩も、なんかあるとき街にふらふらやってきてね、汚い乞食みたいな格好で。で、穴掘りだして、ずーっと穴の中にこう入ってたんだって。

(一同笑)

 で、みんな、「あいつ、なんなんだ」って話になって(笑)。「あいつ、なんなんだ」って話になって、で、「もしかしてなんかちょっとおかしいのか、もしくはなんかすごい病気を持ってんのかもしれない」と。「伝染病にかかっておかしくなってるかもしんないから」って言って、誰も近寄れなかったんだね。でもある人がまあ、おそらく縁があったんでしょう。縁があったある人が――で、慈悲があったんだね。「なんかもし病気とかだったらかわいそうだ」って言って、行ってそういうのを恐れずに聞いたんだね。「あなた何か病気にかかってるんですか?」と。そしたらその人は「いやー、そうなんだ」と。「わしはね、真理のダルマという病気にかかっちゃってる」って言ったんだね。で、それを話してるうちに、その人が有名な大聖者だって分かったんだね。「ああ、すいませんでした」ってなって(笑)。でもまあ、その人は名前が売れてたから最後はそういう感じで分かったわけだけど、そこまでいかない人もいるからね。つまりその、わたしが例えば「なんとかですけども……」「えっ、誰ですか、あんた」と。で、その、ちょっと洒落た「わたしはダルマという病気にかかっとるんじゃ」とか言っても、「ああ、やっぱりおかしい、この人」って言われて終わった人もいるかもしれないよ(笑)。だからその、どこに菩薩が潜んでいるか分からない。ね。だから修行者にしろ、あるいは一般の人にしろ、あまりだから、なんていうかな、関係ないんだったら批判はしない方がいいし、まあもっと言うならば、余計なことは言わない方がいい。ね。「口は災いのもと」って言うけども。それは、災いが実際起きるっていうのもそうだけど、自分のカルマが悪くなるだけだからね。

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