「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(4)
【本文】
③無為に執着して、有為の善の行為を厭うことは、魔事である。
はい。これも似たようなところですね。「無為に執着して、有為の善の行為を厭うことは、魔事である。」
これもいろんなケースが考えられるけども、ちょっと簡単に言いますよ。無為というのは、あるがまま、なすがまま、「LET IT BE」ですね(笑)。なすがままであると。ね。あるがままであると。これは素晴らしい境地だね。もちろんね。
で、この間も言ったけどもね、本当の本当の無為だったらかまわないです。この本当の本当の無為っていうのは、われわれの意志が仏陀や神と調和した無為です。これはオッケーなんです。つまり、あるがままになすがままに生きることが人々の大変な利益になると。これはもう大聖者の境地だね。
でもわれわれはそんなところまでいってないんです。そんなところまでいってないけども、ちょっとずつその無為の素晴らしさ、喜びみたいなものを気付いたり学んだりするようになってくると。つまり「なすがままでいいのです」と。「あるがままでいいのです」と。でもね、もう一回言うけども、われわれが完成したあとの境地っていうのは、自然に生きて人のためってなるんだけど、それまではなんないから。なんないっていうことは、われわれの菩薩行っていうのは強大な強力な意志が必要なんだね。意志。意志力。つまりその、「やるんだ」と。「カルマを超えて、人々を救うのだ」と。あるいは、もちろん「自分のカルマをより一層超えていくんだ」っていう強靭な意志が必要なんだね。それを「無為だ、あるがまま」とか言ってたら駄目なんだね。だからそうじゃなくて、自分の意志によって、あるいは自分のパワーによって、徳によって、現象を変えるんだと。変えて、ね、縁のある人たちを救うんだと。もしくは、自分のカルマを乗り超えて、より高いステージに進むんだと。そういうその境地にいかなきゃいけないんだね。
これもいろんな人を見てると分かると思うけども、あるタイプの修行者が陥りやすい罠です。まだそんな段階じゃないのに、「いや、わたしはもう何もしたいと思わないんです」と言って、こうただボーッとしてると。まああるいはインドヨーギーにもよくそういう人がいるけどね。「ピースピース」と言って、にこにことガンジス河でマリファナばっか吸ってると。誰も救われない、そんなこと。彼も、そのある種の寂静の境地にいるのもかもしれないけど、本当の意味で彼自身のカルマの束縛を超えているわけではない。
――はい、だから無為とか、あるいはあるがままとか、なすがままとか、そういったことはもちろんある段階のいいステージではあるんだけども、それに執着してはいけないっていうことですね。
だから、なんていうかな、まさに、いつも言うようにヴィヴェーカーナンダの人生ってすごくいい例なんだけど、『聖者の生涯』とかね、皆さんも読んで欲しいと思いますが――「なすがまま」じゃないんです。「為せないものも成す」と(笑)。「為せば成る」と。「為なさねば成らぬ何事も」と。こいう感じだね。この、なんていうかな、強力な心の力を使った、すべてを教え通り、理想通りにあらゆる障害を打ち砕いて進んでいくっていう発想がないと駄目なんだね。これがここで言ってるところですね。
だからこれも罠として、「最近なんか、なすがままといって気持ちいい感じがするけど、いや、なすがままって言いつつ、私は自分のカルマとの対決から逃げてないかな? あるいは自分がなすべき使命をおろそかにしてないかな?」ってことを常に考えなきゃいけないんだね。だからもしそれが見えるとしたら、「あ、これは実はわたしの修行がすすんでいるような錯覚があったけども、これは魔事かもしれない」と。「魔の手がそーっとね、伸びて、わたしの菩提心というボールを奪いに近づいて来てるサインかもしれない」ととったらいいってことですね。
はい、じゃあ次いきましょう。