「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(4)
はい次、二番。「カルマの果報に入る力」。はい、これも淡々と書いてあるけど、単純に言うと、われわれは当然、この輪廻にいる限りは、カルマの輪、カルマの原因と結果の法というのから逃れられない。
で、いつもね、ここでは同じようなことを言っているけども、皆さん、占いとかね、あと厄除けとか(笑)、そういうのやっちゃ駄目ですよ。ね。いつも言っているけど、つまり――まあ今日は、札幌とかも含めて新しい人もいるので、もう一回言うとね、例えば皆さんが、占いを見て凶を避けるとか、あるいはちょっと運が悪いから厄除けをしてもらうとか、あとおまじないとかね。まあいろいろあるよね。いろんなかたちで運勢を――まあ風水とかもそうだけど、運勢を転換しようってそういう考え方がある。それはどういうことだか分かりますか? それはつまり――まずね、土台の話として言うと、すべてはカルマです。カルマっていうのは、わたしに苦しみが起きるっていうことは、わたしが過去にその因を積んだからです。それは悪いことをやったから、その苦しみの因っていうのは今溜まってる。それが返って来たときに、苦しみがあらわれるわけですね。で、わたしたちが幸せになるっていうことは、その因を昔作ったからです。つまり徳を積んだとか、人を幸せにしたっていう因があって、それがいつか現象化したときに、われわれは幸せになるんだね。まあ、言ってみればこれだけなんです。つまり、すべては自己の因なんです。外的なものは何も関係がない。
しかし、よく皆さん、言葉としてさ、「因縁」って聞いたことあるよね。「因縁をつけた」とか言うけども(笑)。因縁っていうのはもちろん、あれは「因」と「縁」っていう意味ですね。因と縁っていうのはつまり、因っていうのは原因のこと。縁っていうのはよく「縁がある」とか言うけども、縁っていうのはこれは、直訳すると条件のことなんだね、条件。何の条件かっていうと、つまりさっき言ったわれわれの昔積んだ幸福の因や、苦しみの因が――さあ、条件が整ったら、それが発現するんです。それを条件――縁って言ってるんだね。つまり――それは分かるよね? 例えば、M君が昔、悪口をいっぱい言ってたとしてね。で、将来M君は、そのカルマによっていろんな人から悪口を言われなきゃいけないとするよ。でもですよ、例えばM君が、そうですね、いつも優しい――まあカイラスみたいなね――いつも優しい人たちの中だけで暮らしてたら、あり得ないよね。みんなが悪口なんて言わないようにしているから。で、心から優しい人ばっかりだとしたら、M君が悪口を言われる因はあるんだけど、それが現実化しないわけですね。つまり、条件が整わないわけですね。で、この条件を整うには、つまり、口の悪い人の登場が必要なんです(笑)。口の悪い人が登場して初めて、「条件が整った」。つまり「縁ができた」。これによってバーッてその人がM君に悪口を言うことによって、M君の因は縁を経て、「果」として表われる。これが因と縁と果ですね。つまり、この縁がなければ、つまりその条件が整わなければ、内側にある幸福の因や、あるいは苦しみの因は現実化しないと。
さあ、ここで問題です。また元に戻りますが、「運勢の流れ」っていうのがあります。で、この占いとかでいう運命の流れっていうのは、確実にあります。つまり、あるときは運が悪い、あるときは運がいい。で、それも細かく言えば、あるときは、例えば金銭運がいいとか悪いとか、あるときはこの時期っていうのは人にちょっと誤解されやすい時期だとか、そういうのは確実にあるんですね。で、今までの話聞いたら分かったでしょう。つまり、例えばですよ。この時期は人に悪口を言われそうな時期っていうのは、つまり「過去に積んだ悪口のカルマを浄化する時期」なんです。ね。それを例えばまじないや(笑)、お祓いでストップさせるってどういうことかっていうと、それは可能なんです。つまりそれは、「さあ、そろそろ過去に積んじゃったもの、きれいにしましょうね」っていう流れが来ているのに、霊的な力で「ちょっと今待ってください」ってね(笑)。借金取りに「ちょっと今待ってください」って言ってるようなもんだね。それによって何が起きるかっていうと、今、解放されなきゃいけなかったものがまた内側に籠ります。これは逆の言い方をすると、浄化されなきゃいけなかったのに、浄化されず、またけがれが蓄積されるってことです。これはだから逆に困るんだね。困るっていうか悪いことなんだね。だからその発想っていうのは、やってはいけない。
つまりその、だからカルマヨーガとかバクティヨーガの「すべてを神に任せる」っていうその発想っていうのがとてもいいんだけれも。もちろん仏陀でもいいけどね。まあ『バガヴァッド・ギーター』でも「吉凶善悪に超然としなきゃいけない」とかいう言葉があるけども。われわれは今、運がいいとか悪いとか、そういう発想を根本からなくさなきゃいけない。運がいい悪いなんてないんです。あるのは浄化の時期と、それから徳を味わう時期と(笑)、その二つがある。
だから、逆はまだいいよ。逆はまだいいっていうのは、例えば運が悪いと。「あれ、運が今悪いんだ」と。「やった!」と。「さあ、溜まり溜まった悪業を存分に浄化するぞ」と。逆に運がいい時期が来ると。「えっ、運がいいの?」と(笑)。「やべえ」と。「だっておれ、徳足りないのに――徳足りないのに運が良くなっちゃって、どんどん徳が――徳がつまり、現実化するってことは、徳が減るってことだから――え、ちょっと徳減らしたくない」と。「ああ、くそー、運がいいのちょっとおさまれ」と。ね(笑)。この逆の発想ならまだいいです。
前から何回か言ってるけど、わたしのとても好きな言葉で――お釈迦様の言葉でね、お釈迦様は在家のね、信者たちに、「功徳の器から溢れ出た功徳で生きなさい」って言ってるんだね。つまりどういうことかっていうと、今とまったく同じ発想。つまり普通はですよ、ちょっとイメージで言うと――はい、功徳の器っていうのがあります。仮にね。われわれが徳を積むと――つまり、いいことをしたり修行をしたりすると、だんだんそこに功徳っていう――まあそれは水だとして、功徳の水が溜まっていきます。で、もうひとつね、悪業の器もあるんです。悪業の器は、われわれが悪いことをすると溜まっていきます。で、そこから、われわれの意志の関与できないところで、そこからたまにパッて水が出て、幸福になったり不幸になったりする。これが普通ですね。
で、まじないとか、あるいは霊的な力で幸せになるっていうのは、何をやってるのかっていうと、今言ったように、はい、――この悪の器からはできるだけ何も漏れないように封印をしてしまうんだね。で、逆に徳の器からはどんどんすくって、その徳のパワーを使って願望をかなえるとかね、やってるんですね。でもここには徳を積むっていう発想がない。徳を積まずに、その少ない徳を消費していたらどうなりますか?――もちろん最後には尽きるよね。あるいは非常に少なくなる。で、悪の方は減らさずに溜めてるわけだから、この人の行く末は、非常に徳がなく、悪に満ち溢れた人になる。つまり、ある時期から――これはね、わたしの友達で自称日本で五本指に入る魔術師とかいたから(笑)、その人の体験でもそうなんだけど、絶対ある時期しっぺ返しがきます、そういうことやってると。ある時期からどんでん返しがくる。つまり、魔術とかそういう力を使って、あるときまでうまくいくんだけど――つまり「徳が切れました。はい、徳切れ」。で、「悪がもう満タンです」ってなったときから、自分の人生がガラッと変わります。もう何をやっても上手くいかなくなる。あるいはもう、いろんな悪いことが起きる。これが、魔術も含めて、霊的な力でこの世をうまく生きていこうとするやり方のデメリットなんだね。
で、そうじゃなくてお釈迦様が仰っているのは、まったく逆です。つまり、悪はどんどん出るままにしとけと。まあ、皆さんが修行すると「浄化ですね」って言うわけだけど。浄化っていうかたちでどんどん、本来はまだ将来的に出るはずだったものが、早いうちからバーッて悪が出ていきます。で、これによってわれわれは苦しみを経験する。でもそこでも心を動かさないことによって、どんどん悪のカルマは減っていく。で、徳の方は見返りを期待せずに、とにかく積み続けるんだね。つまり、まじないとかを使って「今、おれは幸福になりたいんだ」とか思わずに、とにかく無頓着に徳を積み、修行をし……っていうことをひたすら繰り返す。で、それでその果てに何が来るかっていうと、つまりお釈迦様も言ってる「功徳の器から溢れた功徳で生きなさい」――つまり、溢れるようになります。
溢れるっていうのはどういうことかっていうと、つまりこれもね、一つの極端な例えで言うと、ある程度利子の付く銀行に、巨額の富を貯金したが故に――まあ今は銀行は利子はすごく低いけども、仮にね、ある程度利子があるとして――巨額の富を貯金したが故に、もう働かなくても利子だけで生きていけるようになったような状態です。つまり、どんどん溢れていると。だから、別にその人は、変な言い方をすれば、幸福になりたくなくてもなってしまうんだね。別に何も願ってないんだけど、溢れているから、どうしても幸福にならざるを得ないっていうか。これが理想なんです。なんていうかな、在家のっていうか、この現世におけるね。その人が解脱とかしなかったとしても、それだけもう極端なほど徳がたまり、悪が本当に少ないっていう状況が訪れれば、その人はそういう、何もしないでも幸福な状態になるんですね。これが理想です。