「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(7)
【本文】
また、如意宝珠の王冠を持つ大竜王は、他のいかなる者によっても迫害されることがないように、菩提心という王冠を持つ菩薩は、悪趣に対する恐怖を持つことがない。
このように、すべての人、神、小乗の解脱者などの持つ善根は、菩提心を発こすことの価値には遥かに及ばないのである。
はい。これもまあ、われわれにはちょっと、たとえがあんまりピンとこないたとえだけども、「如意宝珠の王冠を持つ大竜王」ね。まあつまり、インドの神話の中で「大竜王」、竜の王みたいのがいて、それが「如意宝珠」――さっき出てきた、すべての望みを叶える宝石できた王冠をかぶってる竜の王がいると。だからこの王は、一切の望みを叶える力を持ってるので、何も恐れるものがないと。誰によっても迫害されないと。まあこれは一つのたとえなわけだけど、それと同じように、菩薩が持ってる菩提心っていうものは、それくらいのパワーを持つものなんですよと。よって、本当の意味での菩提心っていうのを心に抱いてる人っていうのは、悪趣に対する恐怖ね――つまり「わたしは地獄に堕ちてしまうんじゃないだろうか」とか、あるいは「わたしは苦しい世界に生まれ変わってしまうんじゃないか」とか、あるいは今生でもいいですよ、「今生、この輪廻において、わたしは将来いろんな苦しみがやってくるんじゃないか」なんて恐怖は一切ないっていうことだね、菩提心を持つ者にとってはね。
はい。そして、「このように」、まとめとして、「すべての人、神、小乗の解脱者などの持つ善根は、菩提心を発こすことの価値には遥かに及ばないのである」と。これはさっきから言ってるように、例えば菩提心とか関係なくてね、「わたしは悟りたいんだ」――これも素晴らしい思いです。ね。あるいは、単純にね、「わたしは徳を積みたい」――これも素晴らしい。いろんな素晴らしいこといっぱいあるわけだけども、そこに菩提心っていうのがなかったら。ね。それはもうまったくその価値としては、はるかに差があるっていうことですね。菩提心をもとにしたさまざまな善根こそがね、まあ本当に価値があるっていうかな。偉大なものなんだっていうことですね。はい。ここまでなんか質問その他ありますか? はい。じゃあ次いきましょうね。