「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(6)
はい。そして、たとえすべてが煩悩で覆われていたとしても、菩提心というね、皆さんの心のエッセンスまでを、それは覆うことはできないんですよと。そしてその菩提心という一つの要素によって、逆に、皆さんのほかの煩悩を、すべて焼き尽くすことができると。
で、ここで、暗闇のたとえがあるね。これはまあよく、いろんなかたちで出されるたとえなんですが、まあこれ、意味分かりますよね。つまり暗い部屋があって、そこがね、一千年間――仮にね、ドアがずーっと閉まってて、一千年間、暗闇だったしますよ。で、そこに――まあ洞窟でも何でもいいんだけど、洞窟とかそういった、開かずの間に誰かが入っていって、まあろうそくとか灯明をパッと灯したと。で、一千年間の暗闇に火を灯して、それがだんだん一千年かけて明るくなるわけじゃないよね。瞬間でしょ? 一千年間暗闇だっとしても、明るくなるのは瞬間なんです、当然ね。まあもちろんこれは電気でもいいよ。電気だとあまりロマンがないけど(笑)。パチッとこう電気点けたら、一千年暗闇だったとしても、瞬間にすべてが明るくなると。で、菩提心もこれを同じですよと。
で、これはね、前に、バクティヨーガの話でも同じ話をした。つまり皆さんの心にバクティという――つまりこの場合は、神への開かれた心っていうかな。神を愛して、神に心開く状態ね。このバクティの灯火を灯しなさいと。この灯火が灯れば、まだ最初は小さな灯火かもしれないけども、それは一瞬にして皆さんの心を明るくし、闇を葬り去る。で、それは菩提心も同じなんだね。菩提心っていう灯火がパッと灯ると、それまでガチガチだった煩悩とかけがれが、ちょっとずつ除かれていくっていうよりは、パーッて一瞬にして変わるんです。
これは、何を言ってるのかっていうのは、恐らくここにいる何人かは、経験してるかもしれない。わたしもこれは何度も経験してる。つまりどういうことかっていうと、まあ具体的に言うとね、いつの間にか例えば、ちょっとエネルギー状態がちょっと悪くなったり、あるいはいろんな悪いことが続いたりして、もう本当に心が悪い状態になってるときがある。例えば本当にもう、ウダウダウダウダといろんなこと考えたりとか(笑)――「あのときあいつがこうやってこうやってこうやって……」とか。ね。すごい暗い心に覆われてるときがある。そのときに、何かのきっかけで――例えばちょっと本を読んだとか、あるいは誰かの言葉を聞いたとか、そのきっかけで――まあ、菩提心でもバクティでもいいんだけど、まあ菩提心だとしたら、「あ、そうだ! わたしは菩薩なんだ!」と。「みんなのために生きなきゃいけないんだ!」って心がちょっとわいただけで、さっきも言ったように、ちょっとずつ、一つずつだんだんだんだんけがれが取り除かれるっていうよりは、それまで持っていたグチグチしたのが全部パーッてなくなるんです。で、ハッ!とするんだね。「ハッ! わたしは今までなんてこと考えてたんだろう」と。「菩薩として恥ずかしい」と。で、これはバクティの場合は、今度は神への愛になるんだけど。ウダウダウダウダやってたのが、神への愛に自分が向かってたときのことを思い出してね、「あ! わたしはなんて固い、こんなグダグダした心に覆われているんだ」と。「神は完全だっていうことを、わたしは忘れていた」と。「すべては完璧である」と。「神よ、ありがとう!」って心を開いた瞬間に、それまで持っていたけがれが、バラバラバラと崩れ落ちる。だからといって根っこからね、その人がもう完全に解脱するってわけじゃないんだけども、少なくとも今、その人が持ってる頑ななけがれみたいなものは、一瞬にしてなくなるんだね。だからこれは――まあ別の言い方をすると、何度も何度も、皆さんはそういう経験をしなきゃいけない。
まあこれはだから、いつも言ってる念正智にもつながるわけだけど、皆さんの心の中で――ここでは皆さんにバクティヨーガの道もとても勧めてるので――まあ実際、この菩薩行とバクティヨーガって、ほとんど同じなんだけど――皆さんのイメージでね、バクティ的なイメージでもいいし、菩薩行的なイメージでもいいので、その灯火を、常に心に灯しておくようにしておいてください。これはちょっとイメージ的な言い方なんだけど、リアルな話としてね――つまり灯火が灯るっていうことは、まず皆さんの心は……いいですか? 常に明るくなきゃいけないんです。明るく――明るくっていうのは別にハイじゃなくてもいいよ(笑)。必ずしもハイじゃなくてもいい(笑)。明るい感じ。明るくて、かつ、喜びに満ちてなきゃいけない。これは『入菩提行論』その他にも書いてあるけど、修行者っていうのはね、喜びに満ちていなきゃいけないんです、心は。喜びに満ちて、明るいんです。絶対にね。で、それは、もしそうじゃないときがあったら、今言ったように、「自分の心はちょっと屈折してる」とかね、「暗くなってる」とか、あるいは「喜びじゃなくて、いろんな苦悩を感じてる」と思ったら、その菩提心、または神への愛の心を、バッてまた灯してね、それによって、サーッと自分の闇を消さなきゃいけない。
で、それがパッとできるときはいい。でもできないときがあるよね。つまり頭では分かってるけど、なかなかできない。そういうときは、無理やりやってください(笑)。
(一同笑)
無理やりやれっていうか、思い込むっていうかな。うん。そういう、だから、本当にいつも言うように、泥臭い道なんだね、こういう道っていうのはね。
つまり、「あ、そうだ。わたしは今暗くなってるけども、菩薩行やバクティヨーガの道っていうのは、常に明るく喜びに満ちてなきゃいけないんだ」と。「え、でも今本当に苦しいな」と。もう言葉でもいい。「わあ、うれしいな、うれしいな」(笑)。
(一同笑)
「ああー、世界は神の愛だ」(笑)。「く、苦しい……けど、ああ、苦しくない」と。「うれしいな」と(笑)。そういう、なんていうかな、無理やりでもいいので、自分の心を明るくね、あるいは喜びに満ちた状態に保たなきゃいけないんだね。うん。
わたしもよくそういうことあった。で、わたしは結構、なんていうかな、ちょっとこう……ナルシスト的じゃないけども――そういうのはだからナルシスト的に、「おれ、かっこいいな」と思ってね(笑)、つまり苦しみながら、「くっ……いや、わたしは菩薩なんだ」と(笑)。
(一同笑)
ちょっと涙が出ながらね(笑)。
(一同笑)
「いや、わたしはもう、みんなのためにこの明るい心を保つぞ」と。で、苦しんだけども、もう本当に客観的にいろんなことがあって、苦しいのは当たり前なんだけども、明るく保とうとしてる自分を見て、「おれ、かっこいいな」と(笑)。そういうちょっと、ナルシスト的だけども、まあそういう道なんだね。どうしても、理想を達成できないことって多々あるわけだけども、そんなのは当たり前だと。それを、ちょっと涙をのんでね、グッと歯を食いしばって、そういう状態に無理やりにでもしていくと。こういうのが必要ですね。
もちろん、何度も言うけども、本当に菩提心、あるいはバクティの素晴らしさを、心が思い出したならば――ここにあるように、一瞬にしてパーッと心が明るくなるはずです。だからそれはいつも言うように、具体的には、普段からね、いろんなやっぱり工夫が必要なんだね。これは何度も言ってるけども、工夫っていうのはまあ加行みたいな感じで、毎日、この時間になったらこういう教えを読むとかね、この詞章を唱えるとか、あるいは壁にいろいろ貼っとくとかね。いろいろ必要なんだね、自分の心を呼び覚ますための工夫がね。
はい。じゃあ次もいきましょう。
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