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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(1)

20091129 解説「スートラ・サムッチャヤ」 第三回

 はい。今日は『スートラ・サムッチャヤ』ね。
 『スートラ・サムッチャヤ』は――今日はまた新しい人もいるんで、簡単に説明するとね、これはまあ、シャーンティデーヴァね。ここでいつも皆さんに薦めている『入菩提行論』とか、あるいはその解説書である『菩薩の生き方』ね。あの『入菩提行論』のシャーンティデーヴァには代表作が三つあるんだね。それが、まあその『入菩提行論』と、今回やる『スートラ・サムッチャヤ』、そしてもう一つが『シクシャー・サムッチャヤ』。この中で一番短いのが、今回のテーマである、『スートラ・サムッチャヤ』ね。で、まあ『入菩提行論』は中間。で、『シクシャー・サムッチャヤ』が非常に長い経典になるんですが。
 で、この『入菩提行論』はシャーンティデーヴァの、いわば書き下ろしなわけですが、この『スートラ・サムッチャヤ』と『シクシャー・サムッチャヤ』は、書き下ろしというよりは当時の仏教のね、特に大乗仏教を中心として、さまざまな経典をいろんなかたちで引用して――つまり自分の言葉というよりは、「この経典ではこう書いてあります」と、「この経典ではこう書いてあります」っていうかたちで、その菩薩行のね、菩薩道のイロハっていうかな、一から十までを、いろんな経典の引用というかたちでまとめてるのがこの『スートラ・サムッチャヤ』ね。で、その短いバージョンがこの『スートラ・サムッチャヤ』で、その長い、より膨大にいろんな経典から集めてまとめてるのが『シクシャー・サムッチャヤ』になります。
 だからこの三つともね、『スートラ・サムッチャヤ』、『入菩提行論』、そして『シクシャー・サムッチャヤ』、すべて菩薩行ね。菩薩の生き方について書いてあるわけですが、それぞれね、非常にいい経典だし、いい特徴があるので、まあこの『スートラ・サムッチャヤ』と『シクシャー・サムッチャヤ』もそのうちまた本にしてね、皆さんに提供したいと思います。

 はい。で、前回までは「信」ね。一番最初に必要な信仰のね、「信」のところまでやったので、今度は「菩提心」からですね。

【本文】

◎菩提心

 ガンダヴューハ・スートラ(華厳経)には、次のように説かれている。

「もし世間の衆生が無上の正覚に発心(=発菩提心)することがあるなら、それは実に得がたきことである。
 菩提心は、ブッダの一切法による種のごときものである。一切の生き物に白き法をあまねく成長させるからである。
 またそれは、一切の罪過をあまねく焼き尽くす炎のごときものである。
 またそれは、一切の不善法を尽きさせるが故に、大地のごときものである。
 一切の教えをあまねく成就させるが故に、如意宝珠のごときものである。
 一切の決意を成就させるが故に、宝の壺のごときものである。
 またそれは、輪廻の中にさまよう衆生を釣り上げる釣り針のごときものである。
 菩提行のすべてのすぐれた境涯(曼荼羅)は菩提心によって生じ、過去・現在・未来のすべての如来もまた菩提心から生じたのである。」

 はい。菩提心の素晴らしさがいろいろと挙げられてるわけですが、新しい人もいるので、「菩提心」っていう言葉の定義からもう一回復習するとね、まず菩提心の前提には当然、慈悲の心が必要です。まあこの慈悲の心っていうのも、定義すると、すべての衆生ね。つまり多くの自分以外の人間たち、あるいは人間以外の生き物も含めたすべての生き物の幸福をね、本当の意味での幸福を心から願う。で、同時に、当然「幸福になってほしい」と思う生き物たちが苦しんでいる、これが耐えられないと。もう本当になんとかしてあげたいと。なんとかその苦しんでる衆生を救いたいっていう気持ちね。これが慈悲ですね。はい。そしてその気持ちがあって、しかし「本当に彼らを救うってどういうことなんだろうか?」と。まあそれはもちろん、さらにその前提には、自分自身も含めた、「いったい幸せとはなんなんだろうか?」と。あるいは、「われわれが生存してる理由とは、いったいなんなんだろうか?」っていうようなことへの理解も必要なんだけどね。
 つまりその、そういうものへの理解がなく、ただ慈悲と言っても、何をもって人に幸福を与えることになるのか分からない。まあ、あまり突っ込まないけども、簡単に言うと例えば「みんなを幸福にしたい」。しかしそれは、お金を振りまけばいいのか? そうではない。あるいは、病気を治せばいいのか? まあもちろん、病気を治したり、お金をあげることによって、一時的なね、幸福は与えられるだろうけども、そうじゃなくてわれわれ、自分も含めて、多くの生き物が陥ってる、根本的な苦っていうのは、ここから抜け出させない限り、本当の意味での幸せはないんだと。
 で、自分自身のことを例えば思索してね、考えてみても、わたしっていう存在は、多くの苦の中に埋没していると。多くの迷妄の中で、もがき苦しんでる。で、それは同じようにみんなね、そうなんだと。みんな、なんで生きてんのか分かんない。何が幸福なのか分からない。一生懸命――いつも言うように、苦しみをごまかすことで、幸福になったつもりでいるだけであって、真実の精神的な心の解放っていうのは誰も経験していない。よって単純に、もちろん目の前のね、例えば悲しんでる人を励ましたりとか、あるいは病気を治したりとかも必要だけども、より根本的な魂の解放にみんなをいざなってあげたいと――いうところにまず行き着く。
 で、次の問題として、そんなことは、今のわたしにはできませんと。ね。当然ね。だって自分一人でも今いっぱいいっぱいなのに、みんなを例えば――自分一人でさえ解放されていないのに(笑)、みんなを解放させるなんていうのは、今この時点では理想にすぎない。よって、じゃあ理想にすぎないからあきらめるんではなくて、「じゃあそれを実現させましょう」と。「わたしはあきらめません」と。「今無理ならば、それが可能な生命に、可能な存在にわたしはなろう」と。――それが、仏陀なんだね。つまり仏陀というのは、もちろんいろんなね、縁は必要だけども、縁によって、縁ある衆生を覚醒に導く。つまり本当の意味での幸福に導く存在であると。「だからわたしが仏陀になろう」と。「わたしが仏陀になることによって、縁ある人々をね、そして最終的にはすべての魂をこの輪廻の根本的な苦から救いたい」と。「だから、どんな苦しいことがあってもわたしは完全な仏陀への道を歩むぞ」という決意を、菩提心っていうんだね。
 だから日本でもさ、よく菩薩とか菩提心とかいう言葉がなんとなく使われるけど、なんとなくだからそれは、あいまいな感じでね、例えばすごく優しい人を「菩薩のような」とか言ったりするけども(笑)、そんな甘いもんじゃないんだね。それはただの優しい人であって、菩薩っていうのは、優しいかどうかは別にして(笑)、強烈な、非常に現実的な愛があるんだね。
 現実的な愛っていうのは、つまりもう一回言うけども、なんとなくほわーんと、「みんな幸福になってほしいな」――これはもちろん素晴らしい。じゃあ何が幸福なんだと。で、そのためにはどうすればいいんだということに対して、強くアプローチしなきゃいけない。で、その究極的な答えとして、もう一回言うけども、自分にはまだその智慧も力も足りない。よって自分の智慧や力を完成させるために、仏陀への道を歩もうと。
 だから菩提心っていうと、もともとね、菩提心っていう言葉にはそういう意味があるんだけど、インドで菩提心っていう言葉っていうのは、「ボーディチッタ」っていうんだね。ボーディチッタっていうのは、これ今言ったような意味が含まれているんですが、直訳してしまうと、単なる――まあボーディっていうのは覚醒っていう意味なんで、チッタっていうのは心だから、ただの「覚醒の心」っていう感じになっちゃうんだね。なんか意味がよく分からない。で、それをチベットに訳したときに、チベット人でそれを訳した人は、どう訳したかっていうと、「悟りを目指す勇猛な心」って訳したんだね。勇猛なってどこにも入ってないんだけど(笑)、意訳して「勇猛な心」って訳したと。それはだから今言ったような意味なんだね。つまり、これはまさに勇猛な道なんです。勇猛ね。つまり、相当な勇気と、すごい、なんていうかな、何にも負けないような不退転の心っていうんですが――退かない心、強い心がないとこの道は歩めない。つまり、仏陀になる道っていうのは大変だから。ね。それを、自分のためではなくて、多くの衆生のためにその道を歩もうと。必ずわたしは仏陀になるぞ、という誓いというかな、決意ね。これを立てた、こういうふうに心が思った人を、菩薩っていうんです。
 だからそれは別に――まあ言ってみれば、修行段階とかは、ある意味関係ない。例えばここに、もうどうしようもないような、煩悩だらけで、心がけがれまくってて、怒ってばかりいて、どうしようもないような人がいたんだけど、でもあるときふっと反省して、「わたしはみんなのために生きよう」と。「みんなのために仏陀になるぞ」って思ったら、菩薩なんです、その人は。もうどうしようもなくても(笑)。素晴らしいことなんです、それはね。逆にだから、心はとても穏やかで、人にいつも親切でっていう人がいたとしても、もしその人が、「いや、わたしはそんな道歩めません」って言うんだったら、菩薩ではない、その人はね。だから客観的には分かんないよね。すごい迷惑かけてる、ワーッて言ってる人が菩薩だったりする(笑)。段階はまた別問題だから(笑)。その心を持った段階で、それは菩提心が発された、そして菩薩の道を歩み出したっていうことなんだね。これはとても素晴らしい。
 だからこの中でも、皆さんはね、もしかすると相当多くの人がもう菩薩の道に入ってるかもしれない。もしかすると全員入ってるかもしれないよ。思うのは自由だから、最初はね(笑)。

(一同笑)

 別にお金いらないし(笑)。思うこと自体は別に、なんていうかな、大丈夫だよね。そこから先が問題なんであって(笑)。
 でもその菩薩のカルマがないと、思うのも実際大変なんだね。わたしはよくそういう相談っていうか、そういう話を聞いたことある。つまり、「いや、先生。先生が話した菩薩の道とかは素晴らしいと思うけども、どうしても、そういう勇気がありません、わたしには」と。「わたしはやっぱり、そういうちょっと、衆生のためにどんな苦しいことがあっても仏陀になるんだ、ってまではまだ思えない」と。それはまあ、しょうがないっていうか、まだそのカルマが熟してない段階だね。そういう人もいるだろうけども、じゃなくて、無鉄砲にね――まあ逆にこういうのは無鉄砲な方がいいんです。もう本当にもう、人に悪態ばっかついてね、もう本当にもう煩悩や怒りの塊のような人が、「おれ菩薩になる」とか言っても(笑)、みんなが「ええ!?」って驚いたとしても、それはかまわない。うん。つまり自分で、かなり無理かなって思っててもいいんですよ。「こんなおれがなれるんだろうか」と。「いや、おれはなるぞ!」と。この無鉄砲さって――まあいつも言うように、ラーマクリシュナも、修行者には矢でも鉄砲でも持ってこいっていうような無鉄砲さが必要だっていう話があるけども、必要なんだね。つまり「エイ!」って飛び込む気持ちっていうか。うん。そういう――もちろんそれがだんだんだんだん、確固たる勇気に変わっていくんだけど、最初はまだ確固たるものはないから、とにかくそういうちょっとこう無鉄砲的な勇気でもいいから、勇気を持ってその道に飛び込むんだね。
 この菩提心的な話っていうのは、もう勉強会でひたすらいろんなところでしてるので、何度も何度も言ってますが、つまりわれわれが修行に入るときとか、あるいは、自分は幸福になりたいって考えるときっていうのは、いくつかの道があるんですね。つまり、菩薩の道じゃなくても、例えば天を目指す道とかね。あるいは個人的な、まあ菩薩ではなくて、自分の解脱だけを目指す道とか、いろんな道がある。でもいつも言うけども、わたしは皆さんに、菩提心、つまり菩薩の道をお勧めします。それは皆さんのためでもあります。つまり菩提心っていうのはその、「みんなのために」っていうものなんだけども、でもこのみんなのためにっていう心こそが、自分自身をね、最も幸福にする。あるいは最も速やかに解放に導く。だからこれはお勧めですね。
 ですから、この中でもし――もうそういうね、心を何度も持った人はもちろんいいけども、ちょっとこう迷ってるっていうかな、心が躊躇してる人がいたら、ぜひその、発願をしてね、「わたしは菩薩の道を歩くんだ」という発願をしたらいいと思うね。
 まあチベットとかでは、よくそういうことを儀式的にやったりするんだけど、まあ別に儀式とかは必要ない。皆さん、心の中で思えば充分。だって儀式やったって本人が心の中で、「あんまり歩みたくないな」とか思ってたら、意味ないからね(笑)。だから、心で本当に皆さんが思うことが第一ですね。
 はい。まあそれが菩提心の定義ね。

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