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「解説『スートラ・サムッチャ』」第14回(5)

◎知性の外にある世界

 いつも言ってるけどさ、教えには、まあ仏教的にいうと、よく世俗諦と勝義諦っていうわけですけども、今言ったその相対的な、つまり現実的な教えと、それからそれを超えた究極の教えがあります。で、もちろん実際は、この現実的な教えの方が大事なんです。例えばさっきから言ってる『入菩提行論』であるとか、このシャーンティデーヴァの『スートラ・サムッチャヤ』の前半の方であるとか、つまり例えば、こういうときはこういう心の持ち方をしなさいと。あるいは、カルマの法則っていうのはこうなってますよと。あるいは、実際にこういう場面があったら普通の人は怒ってしまうけども、決して怒ってはいけないと。愛しなさい、とか、いろいろあるよね。で、それの方が実は大事なんです。なぜかというと、われわれは今相対世界に生きてるから。相対世界において、われわれの心を成熟させ浄化し、進化させてくための具体的な教え、こっちが大事なんです。でも、大事なんだけども、あまりにもこれにはまってしまうと――はまってしまうとっていうか、それだけに心が覆われてしまうと、今度はガチガチになっちゃうんだね(笑)。ガチガチになっちゃうっていうのは、論理的にわれわれが理解できるだけの法則しか、われわれは理解できなくなってしまう。
 つまり論理的に、はい、カルマの法則っていうのは――カルマの法則自体も、まあ言ってみれば論理的っていえば論理的ですよね。論理的っていうのは、カルマの法則っていうのは言ってみれば、為したことは返る。為したことが返るっていうのは、つまり作用・反作用の法則みたいなもので、あることをわれわれがアクションを起こしたときに、つまりそのプレーンな世界に一つの力を加えたら、それは元に戻ろうとしますよと。ただこれだけに過ぎない。例えば何の波もなく何の凹みもないプレーンな状態にグーッと一つの力を加えたら、その力は――いいですか?――力を加えたのとは全く真逆に、そして力を加えたのと同じ力だけ戻りますよと。で、これが物理的にだけではなくて、現象的にすべての現象宇宙の中で、その法則性が存在してますよっていうことを言ってるに過ぎないんだね。だからこれは非常に分かりやすい。
 で、われわれが実際に修行して心を浄化していくと、まあ直感的に、あるいは経験的に、この法則性が実際にあるなっていうのがだんだん分かってくる。「ああ、やったことは返ってくるんだな」と。これは例えばですけどね。だから、われわれは人に善を為さなきゃいけないし、悪を為してはいけないと。あるいはそうですね、簡単に言えば、自分がしてほしいことを人にしなきゃいけないし、自分がしてほしくないことは、決して人にしてはいけないと。例えば自分が悪口言われたくないんだったら、人に言ってはいけない。当たり前の話だけどね。自分がだまされたくないんだったら、人をだましてはいけない。ね。これは非常に分かりやすい。で、こういうかたちで、分かりやすい教えがいろいろある。で、それに則ってわれわれは自分を磨いていかなきゃいけないんだけど、あまりにもそこにはまってしまうと、それを超えた真実が分からなくなるんだね。
 だから、われわれは一応便宜上、この分かりやすい教えの中で自分を磨いているけども、実際には、われわれのこの知性っていうのは限定されていて、この限定された知性の外にある世界があるんだと。ね。そこへのアクセスっていうのは、サマーディ、究極の瞑想に入ったり、あるいは神の恩寵によってこの扉が開かれたときしか分からない。でも、分からないけども、少なくともその扉を閉めないようにしようと。われわれが頭で教えを分かった気になっちゃってガチガチになってると、扉は閉まります。恩寵が来ても分かんなくなっちゃうんだね。だから、特にここのテーマである如来とか聖者に対してはそうだけども、扉は開いてます。
 扉は開くっていうのは――最近のさ、最近の日本の例えば仏教学者とか、あるいはヒンドゥー教の学者とかっていうのは頭が固い人が多いから、例えば聖者とか神とか如来とかを限定的に見たがるんですね。例えばお釈迦様も一人の人間だったとか、そういう見方をしたがる。あるいは例えばラーマクリシュナにしろいろんな聖者も、彼らは別に特別な存在じゃなくて、一人の人間として生まれて、頑張って修行してこうなったんだ、みたいな言い方をする。まあ、もちろんそれが、そういう教えが好きな人はそれでもいいんですけども、でもそのように見てしまうと、何度も言うけども、われわれのその蓋が閉められてしまいます。だからわれわれ自身、もしくは限定的な世界に対しては別に限定的な見方でいいんですけども、聖者とか神とか如来とかそういったものに関しては、ちょっとそのネジを緩めて、限定的な見方をしないようにしてください。
 例えば、そうだな、お釈迦様が――お釈迦様って一応伝説っていうか、あの伝統的な話では、お母さんの――まあお母さんはマハーマーヤーっていうお母さんだったんですが、お母さんの脇の下から生まれたって言われてるんだね。で、これ普通、現代の仏教徒とか仏教学者とかは、もちろんそんなことはあり得ない、と。あり得ないという前提のもとに、まあつまり普通の人間みたいに股から生まれたら(笑)、股っていうのはつまり普通の女性性器から生まれたとしたら、それは不浄なものっていうか不潔な感じがするから、だからそうじゃなくて脇の下から出たんだなっていう(笑)、なんていうか推測をするわけだね。これは、「そんなことほんとにあるわけがない」っていうその前提のもとに、「ああ、これは恐らく神格化するために」みたいなことを考えるわけだけど、そんなこと考えちゃいけません。仏典にそう書いてあるんだったら、「ああ、なるほど!」って思えればいい。「お釈迦様はこっから出てきたのか!」と。「すげえな!」と。「さすがお釈迦様!」みたいな感じで(笑)。
 で、これはもう一回言うけど、だからといって、そこに固執してもいけないよ。例えばほかの人が、「そんなわけないじゃないですか」って言ってきたとしても、別にそこにこだわってるわけじゃないんだね。こだわってるわけじゃないっていうのは、「いや、絶対お釈迦様はここから出てきたんだ!」とか(笑)、どうでもいいことだよね、それは(笑)。
 つまりもう一回言うけど、ネジを外せっていうことです。つまり、われわれの人智を超えた存在としてお釈迦様がいらっしゃる。あるいはラーマクリシュナにしろそうだけど。その大聖者方っていうのは人智を超えた存在なんだと。でも人智を超えてるけど、われわれが認識するには何かのカテゴリーにあてはめなきゃいけないから、それに一応あてはまってるだけなんだね。実際には、お釈迦様が股から生まれようが脇から生まれようがどうでもいい。まあ、言ってみればどっちでもないです。どっちでもないっていうのは、実際には――ちょっと変な言い方すればね、これも一つの仮説ですけども――仮説として実はお釈迦様は、股からでも脇からでもない、光り輝く存在としてただわれわれの前にブワーッと現われただけかもしれない。何もなく、ただブワッと現われただけであると。でもわれわれの理性がそれを許さないから、あてはめてしまうんだね。「ああ、ああ……マーヤー婦人の脇から生まれた!」って感じで、まあつじつまを合わしてしまうんですね。だから、このつじつま合わせのつじつまの合わせ方がどうだったのかなっていうのは、どうでもいい話なんだね。実際にはわれわれの人智を超えた存在としてわれわれの前に現われたって考えるだけでかまわない。だからその辺の柔軟な理解があれば、ここはいいと思います。
 だからここも一個一個考える必要はないよ。例えば、「ある者は如来が二・五キロあった」と。「二・五キロメートルの如来ってどういう意味なんだろう?」とかね(笑)、考える必要はない。つまり何度も言うけど、本来はどっちでもないっていうかな。如来の――言ってみればさ、こないだも言ったけど、如来っていうのは、時間と空間を超えています。時間と空間を超えるっていうことは、つまり空間を超えてるって言った時点で、もちろん大きさなんてないわけだね。大きさって空間ですから。大きさもないし、時間も超えてるから、つまり過去・現在・未来もない。つまり二千五百年前に現われたっていうのも、一つの、なんていうかな、幻に過ぎないんだね。まあ言ってみれば、今も、今も如来っていうのは存在している。でもそれは、われわれのまだカルマのセッティングが合ってないときっていうのは、照準が合ってないときっていうのは、見えないっていうか、存在が認識できないだけであって、実際には時間も関係ないし、あるいは空間も関係ない存在として、如来は常に遍在してるわけですね。しかし、われわれ側のカルマの条件が整ったときに、一つの非常につじつまが合ったかたちで、聖なる存在がわれわれの前に現われる。現われるように見えるっていうかな。で、つじつまの合ったかたちでわれわれに教えを説いてくれるということですね。

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