「解説『ただ今日なすべきことを』」第2回(1)
20080109
ただ今日なすべきことを 第二回
【本文】
気のせい
昨日、ヨーガ教室のある生徒さんが、こんなことを言っていました。
「最近、食べるものに気をつけて菜食中心にしていたんですが、今日、久しぶりに昔大好きだったアンパンを食べちゃいました。でも、食べながら、『あれ、なんでこんなものが好きだったんだろう?』って考えちゃいました。」
今日の日記のテーマは、菜食の勧めということではありません(笑)。
味覚って結構、「気のせい」なんですよね(笑)。
味覚って、五感の中でもとても面白い分野ですね。共通認識が一番得られにくいというか。
例えば「アンパンの味」ということで思い浮かべる味も、実は人それぞれ、微妙に違うと思うんですね。味覚って、視覚や聴覚と違い、外に出して、比べることができません。それぞれの口の中での出来事ですから(笑)。
今日は、こんなことがありました。
ある生徒さんが、アーサナをやるたびに、「痛い! 痛い!」って言うんですね。それで私が、「ほんとはそんなに痛くないんじゃないの?」って聞いたら、彼も冷静になって、「ほんとだ。よく考えたらそんなに痛くなかった」って言うんですよ(笑)。
その生徒さんはもともと、「イヤだ」とか「痛い」とか「苦しい」とかいう言葉が、口癖になってたそうなんです(笑)。よく考えたらそうでもないのに、そういう言葉と思いを最初に発することで、いろんなことを痛く、苦しく、嫌な感じにしてたということに、今日、気づいてくれたようで良かったです(笑)。
まあつまり、今日言いたいことは、「すべては気のせいだ」ということです(笑)。
苦しい? 気のせいです(笑)。
あの人が嫌い? 気のせいです(笑)。
できない気がする? 気のせいです(笑)。
すべてを喜んで受け入れると、世界も笑顔を返してくれるもんです。たぶんね(笑)。
はい。これはまあ読んだとおりですね。これはまあこの間も話したし、いつも話してるようなことだね、ここはね。まあ気のせいだと。心の問題ももちろん気のせいだし、それからここに書いてあるね、感覚的問題。われわれはよく感覚ってものを信じがちだけども、まあ実は気のせいだと。あの、極端に言えば、例えばナイフで刺されて痛いのも気のせいです(笑)。これは極端な話だけどね。
まあよく例として挙げるのは、これはまあ今でもわたしよくあるんだけど、何かおいしいものを――まあおいしいというか自分が昔から好きなものを食べるとき。口に入れた瞬間、まだそれが舌に達していないときに、「うめえ」って言うんだね(笑)。「うめえ」って言葉を発してしまう。つまりもうなんていうかな、舌にそれが伝わって、吟味して「ああ、おいしい」って言ってるんじゃない。もう完全に気のせいなんだね。これはあらゆる感覚の問題がそうだし、それから心の問題ね――も、もちろんそうだと。
で、最後の方に書いてある「苦しい」とか「嫌い」とか「できない気がする」とか、あの、これはね、やっぱりそのなんていうかな、普段からわれわれが考えなきゃいけないところっていうかな。あのまあ、例えば食べ物の味とかそういうところはまだどうでもいいんだけど、精神的なネガティブな意識とか、あるいは悪い思いっていうのは、できるだけ早く断った方がいい。でも断てないっていうその思い込みがあるんだね。断てないっていう思い込みっていうか、「わたしは今怒ってるんだ」とか、あるいは「わたしはあの人が嫌いなんだ」っていうすごい思い込みにわれわれは支配されている。これは習性といってもいいんだけど。で、すべては気のせいっていうのは言い方を換えると、すべては習性なんです。そのような習性が働いて、一生懸命一生懸命こう、「おれは怒ってるんだ、おれは怒ってるんだ」、あるいは「おれはあいつが嫌いなんだ、嫌いなんだ」ってやってるだけなんだけど、全部気のせいなんだと。つまりただ習性によってそのような縁が働いてるだけなんだと。
だからそれは強い意志を持ってぐっと心の方向性を変えれば変わるんです。もうコロッと変わります。でもいつも言うけども、まだ皆さん修行の――なんていうかな、年数が少ないので、その経験があまりないかもしれない。でもその経験が増えてくると、変わるってことが――つまり心なんてのはものすごく不安定なもので、確固たる、なんていうかな、ものはないんだってことがだんだん分かってくるので、それをいい方にいい方にと変えやすくなるんだね。
もう一回言うけども、変わるんです、すぐに。でもなんで変わんないのか。普通は――それは変わるっていうことをよく分かってないんです。変わんないと思ってるんだね。怒ってるときに、この怒りは「おれは怒ってんだ」っていうことをもう一生懸命持続させてるだけであって、それはちょっと心の向きを変えれば怒りなんてすぐ消え去るんです。それを分かってない。あるいはエゴが、つまり潜在意識のエゴイズムが錯覚をしてる。
例えば怒ってるときは――これもよく例に出すけど、怒ってるときは怒りを持続させた方が得だって思っちゃってるんだね。こういうのよくみんなあるでしょ? 例えば誰かになんかすごい嫌なことをやられて、ガッて怒る。本当のこと言うと、怒りって一瞬なんです。そのあとも怒ってるのは努力なんです。エゴの努力だね。なんでかっていうと、エゴはその方が得だって思ってる。わたしはひどいことをやられたら、怒り続けないと損だと。怒り続けることがわたしのメリットであるって錯覚してるんだね。
でもね、よーく考えたら分かると思うけど、デメリットです。怒ることによってどんどん心は暗くなり殺伐とするし、人との間にも壁ができるし、現実的にもギクシャクするし、自分の心もどんどんどんどん悪化していく。こんな馬鹿なことはない。だって不幸でしょ、一番自分が。怒ってるときって(笑)。もしそこでパッと断って相手を完全に許して、怒りがない状態に持っていったならば、自分も苦しまないし、周りとも上手くいくし、自分の心もどんどんどんどんおおらかになっていく。もうメリットしかない。でもなぜか、はるかな過去からの積み重ねでわれわれは、「わたしが何かひどいことやられたら怒り続けなければいけないのである」っていう習性を持っちゃってるんだね。で、それによって一生懸命怒ってるような気になってるっていうか。
だからそこで、「気のせいだ」っていう一つのなんていうか、楔というかな、一つのショックを与えてあげるんです。こういう例えば本を読んでね。そうするとちょっとずつ心が、「あれ? そうだったのかな?」「わたしは別に怒ってなかったのかもしれない」「わたしはあの人別に嫌いなわけじゃないのかもしれない」というふうに思ってくる。
あの、皆さんは――そうだな、そういうことはよく分かってるのかもしれない。そういうことっていうのは、心っていうのがあまり確固たるものじゃないってことね。観念的な人で修行もあんまりしてない人っていうのは、やっぱりその思い込みが非常に強い。つまり、「わたしはこう思ってるんですよ」と。「こうなんですよ」と。「いや、あなたは別に嫌いじゃないんじゃない?」って言っても、「いや、嫌いです」と。「絶対嫌いなんです」(笑)。「わたしは怒ってるんです」。で、この壁がだんだん修行によって崩れてくるんです。だからどんどん崩すべきだね。
自分なんてものは、本当のものってないです。本当のものってないっていうのは、これもよく言うけども、だから玉ねぎみたいなものだね。「あなた本当に怒ってるんですか?」「あれ、怒ってないかもしれない。じゃあ何なんだろう?」――その皮をパッと、つまり玉ねぎの皮を一枚むくと――「あ、本当はあの人好きだった!」「でもそれも本当ですか?」と。それもむいてみなさいと。「あ、違った」と。こうやってどんどんむいてくと、じゃあ本当はどうなんだと。本当はどうなんだと見極めたいと思って心の皮を全部むいてくと、玉ねぎみたいに最後は何もなくなっちゃうんです。それ全部気のせいなんです。気のせいが気のせいを生んで、こう固まっているのがわれわれの心なんだね。だからこんなものっていうのは実体がない。
で、実体がないんだけどわれわれはこの心を使って生きていかなきゃいけない。よって肯定的に――肯定的っていうか、メリットのある方向に心を作ってくんです。これが、まあよくいう念正智だね。つまり、まあもちろん前提としてこういう教えを学ぶっていうのが大事だけども、まず教えを学んで、どのような心持ちが一番いいのか、あるいはどのように生きることが正しいのかっていうことをしっかり学んで、で、常にそのような心であり続けるように自分をチェックする。で、もし自分がそうではない悪しき心を持っているのに気付いたら、それは気のせいであると。わたしは本当は今、あの人憎くも何もないと。愛してるんだ、というふうに、こう変えてくんだね。それをものすごくなんていうかな、軽い気持ちでっていうか、もともとそうなんだというぐらいのおおらかな気持ちでやると、メリットはすごく大きいと思うね。
はい。で、もちろんそこからさらにこう広げて、ここに書いてある感覚の問題とかね。あるいはその、そうだな、われわれがここで経験してるさまざまな世界の問題に関しても、実は気のせいなんだと。実は習性からくる幻みたいなもんなんだっていうのを観察していったら、まあ修行はすごく進むと思うね。ここにも書いてるけど一番分かりやすいのってやっぱりね、味覚なんです。あの、味覚って結構気のせいなんだね。気のせいっていうか実体がないですよね、味覚って。いつも言うけど、その何をもっておいしいって言ってるのか。うん。何をもってこれはデリシャスとか言ってるのか(笑)。
(一同笑)
デリシャスって言わないかな、最近は(笑)。何をもってこれは甘いですねって言ってるのか。例えば甘いとか辛いとかいうのもまあ一つの観念だから。だからそれを探っていくのも面白いかもしれない。
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