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「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(4)

【本文】

流水

 人間の執着というのは、苦しみを増し、人生を誤らせますね。

 ここでいう執着っていうのは、性欲がどうとか食欲がどうとかいうことではなくて、あらゆる流れ行くカルマの動きに対する執着とでもいえばいいだろうか。

 たとえば昨日、あるネガティブな意識状態になった人がいたとします。でもそれは、昨日のことなんだね。昨日のことなのに、その自分の過去の瞬間的な意識状態に執着して、苦しみを引きずり続けてるのは、その人自身なんだね。

 原子運動がそうであるように、カルマの流れも、人間の意識も、瞬間瞬間、移り変わっているんだ。だから心は一時も、執着しちゃいけないんだね。瞬間瞬間、新鮮な気持ちで、ありのままにすべてを見つめなきゃいけない。

 そうしたらね、人を憎むなんてことはなくなるよ。瞬間瞬間ね、新たな気持ちでね、人との出会いを喜べるようになる。

 欲求不満とかもなくなるだろうね。あるときにわいた欲求に対するとらわれを持ち続けてしまうから、動き行く現象とのギャップで欲求不満に陥るんだから。

 瞬間瞬間、すべてが生まれ変わり、すべてが新しい! この自然の真理は、すばらしいと思わないか? 仏教でいう無常っていうのは、ネガティブな意味で表現されがちだけど、見方を変えれば、非常にすばらしいんだよね。

 無常そのものが苦しみじゃないんだ。無常はこの世の真理だからね。無常なのに、その過ぎ行くカルマにとらわれるから、執着するから、苦しいんだ。

 また、瞬間瞬間冷静に見れば正しい判断ができる人も、執着によってものを見誤る。恋愛なんかで多いパターンだけどね。ギャンブルにはまるパターンとかも同じだね。

 流れる水は清らかだけど、執着によって流れを止めたとき、無理が起こるんだね。圧迫と錯覚と苦しみが起きるんだ。

 はい、まあこれもちょっと高度なこと言ってますけどね。つまり、すべては無常であると。でもこの無常っていうのは悪い意味じゃなくて、あの、さっきも言ったように、すべての現象っていうのはカルマによって移り変わってると。で、これは、ここに書いてあるように、実は清らかなんです。
 清らかっていうのは、なんていうかな、前にもちょっとそういう例えしたけども、わたしがちょっとあるとき、まあ気付いたっていうか、思いついた例えがね、電車がこう、ウーッて動いてますと。目の前を電車が通ってて、で、われわれはただ目の前だけにこうカメラみたいにこう焦点を合わしてれば、ただ、なんていうかな、こう飛ぶように電車がパーッと目の前を過ぎ去っていく。――でもわれわれは、そのパッと一瞬目に入った、例えば電車の中に座ってる可愛い子とか、あるいは電車の中にある広告とかに目がいって「あっ!」て、目で追っかけるんです。で、ああーって行っちゃうよね。――で、しばらくは見てられるよね。しばらくは見てられる。「あっ、あの子可愛いなあ」とか言いながらウーッと見て、「ああ、行っちゃった」ってなるんだけど、本当はもう瞬間で行っちゃってるんです。本当は。いないんです、すでに(笑)。でも執着によって、まだ自分のものであるっていう錯覚によって、ずっと錯覚し続けてるんだけど、いつかはそれも見えなくなるから、そのときに苦しまなきゃいけない。
 じゃなくて、ただ目の前だけを見てれば、その女の子への執着とか別れの苦しみとか、そんなもの何もなくて、ただきれいな映像が過ぎ去ってるだけなんです。
 で、もっと言えば、電車がありますよね。電車の窓がありますよね。で、ただ目の前だけを見てると、窓を越えたあっち側の景色が見えるんです。これが真理の悟りです。だからこの世は無常なんだけど、とらわれずにいると、その無常の裏側にある真理みたいなものが見えてくる。で、無常自体もいろんなものが現われては消えていく、この、なんていうか、作業というか、これが非常に楽しく美しく感じられるんです。
 でもわれわれはすぐとらわれます。とらわれることによって、ここに書いてあるような、恨みとかね、憎しみとか欲求不満とかいろんなものが生じる。なんでかっていうと、そのもう過ぎ去ってしまったものにとらわれちゃってるから、それと今の現在とのギャップで、つまり妄想と現象とのギャップで苦しむんだね。
 で、お釈迦様が「すべては無常である。無常であるがゆえに苦である」って言ったのは、まあいつも言うようにトリックがあるんだね。無常は苦じゃないんです。無常なものに執着するから苦なんです。つまり無常なのに――まあ今言ったように、移り変わってんのに、その、すでに移り変わってた、つまり一瞬先のものってもう消えてるんだけど、それを消えてないと思って執着してるから、どんどん苦しみが増していくわけだね。だからそうじゃなくて、一切とらわれない。
 簡単に言うと、ちょっとイメージで言うと、心の中に一つ刃物を用意して、何か起きたらすぐパッと断ち切る。はい次、はい次。で、ここに書いてある例のように、昨日ネガティブな思いが生じましたと。でもそれ昨日でしょと(笑)。昨日どころか例えば、例えばT君が誰かにね、例えばT君がなんかちょっときつい言葉をHちゃんに言って、Hちゃんがちょっとカチンときたとするよ。「え!? 何言ってんの?」――まあ、それはカルマによってっていうか、まだ心が未熟だから、何か言われてHちゃんが怒っちゃった。これはしょうがない。次が問題です。瞬時に断ち切るんです。普通は断ち切らない。断ち切らずにうじうじうじうじと、「全くT、くっそー、T!」。で、また過去のことを思い出して、「そういえばあのときもこうだった。このときもこうだった」。で、T君が、「ねえ、ねえ、ねえ、ねえHちゃん」とか来たとしても、プイッてこうなっちゃう(笑)。つまりずっと過去にとらわれてるわけだね。だからもうパッと断ち切る。T君がいかにひどいことを言ったとしても、パッと断ち切って、また非常に新鮮な気持ちでT君を見る。まあこれは執着とかもそうだけどね。なんか自分が愛情が満たされるような言葉を言われたとしても、そのときは嬉しかったとしてもパッと断ち切る。また新たな目でその人を見る。瞬間瞬間ね。
 こういうことを完全にできたら悟りだけど、そこまでいかなくても心がけてみると、非常に面白い。そうするとさ、なんていうか、すべてが新鮮なんです。
 あの、すべてはね、保証されてないんだよ。すべては無常で保証されていない。例えばさ、今こうやってみんな集ってるけど、あの、ちょっと極端に言えばさ、まあ、みんなでそれぞれ会えるのはこれが最後かもしれないんだよ。明日、全員死ぬかもしれない(笑)。それは全く分からない。それどころか、この次の瞬間に皆さんがここに存在してるっていう確証はどこにもない。そういう意味で見ると、すべては瞬間瞬間新しく生まれている。だからその、そうだな、慣れっていうのはなくなるんだね。慣れね。慣れっていうのは錯覚なんです。本当はすべて移り変わってるんだけど、なんとなくわれわれは、ずーっと同じ世界を見ているような感覚があるから、慣れてしまう。慣れることによって、心がちょっとこうどよーんとよどんでくるんだね。
 だから一つのコツとしては、瞬間瞬間、新しく、新しく、新しく。だから例えばさっきU君が遅れてきたけど、そのときに瞬間的な目でU君を見るとしたら、「ああ、U君! 会えて嬉しいよ」と(笑)。「あれ、この間も会ったじゃないですか」じゃなくて、もうその瞬間にすべてを集中するわけだね。もう一瞬一瞬がまた新たなページになってるっていうか。もう前のことは全く関係ないっていう感じなんだね。こういう目で見てれば、何にもとらわれず、何にも苦しむことなく、なんの、なんていうかな、この世に引きずり込まれることもなく、ただ、なんていうかな……まさにリーラーなんだけど。リーラーって、神の遊びのことをリーラーって言うんだけど。まさに神の遊びのように人生が展開していくんです。「ああ、人生っていろんなことがあって面白いなあ」だけなんです(笑)。いや、そうなんです。例えば、会社が倒産して借金地獄になりましたと。それはそれで面白いんです(笑)。

(一同笑)

 「あっ、なんか借金だぞ」と(笑)。で、それをとらわれると、ずっと例えば未来のことを考えたり、過去の栄光を考えたりして「おれはなんてことになってしまったんだ、うじうじうじうじ」とずっと悩まなきゃいけない。そうじゃくて、「あれっ? 借金っていう現象が人生にやってきた」と。「これは面白い」と(笑)。で、そこから、なんていうかな、あの、変な妄想とか過去の思い出や未来への恐怖とか一切持たない。その瞬間――だって借金があろうがなかろうが、例えば今日の夕飯作んなきゃいけない。例えばね。とりあえずそれはもう夕飯作りに集中するわけです。借金があろうがなかろうが、「さあ、この醤油をどれくらい入れようか?」とか、そこに、その面白さに集中する。こういう感じで、なんていうかな、とらわれずに生きていったならば――っていうのはさ、結局そのすべてはカルマだから、カルマによってすべては起きて消えていくのは当たり前なんです。借金を背負うカルマがあったら絶対背負うんです。で、そこから救われてまた金持ちになるカルマがあるとしたら、絶対なるんです。あるいは人に優しくされるカルマがあるとしたらなるし、人から悪口言われるカルマがあるとしたら、絶対なるんです。だからそれをああだこうだ、執着したり嫌がったりしてもしょうがないんだね。そうじゃなくて、それはそれとして、なんていうか、楽しむというかな。そういうその感覚が必要だね。われわれの、なんていうか、実践としては。
 で、それが本当に悟りに近づいてくると、さっき言ったように、そういうわれわれの努力とか関係なく、本当そういうふうに見えるようになってきます。ただ神の遊びのように人生がこう展開していく。だから、なんていうかな、関係ないっていうかな。
 わたしちょっと、正月三日ごろにミクシィの方にも書いたけど、ラーマクリシュナの言葉でとてもわたしが好きなのがあって、あの、「君はなぜね、神に委任状を書かないんだ」と。これはまあラーマクリシュナの独特の言い方なんだけど。つまり、「自分の心配と責任をすべて神にお任せします」と、そのような委任状を書けと。つまりその、神に対して、自分の心配と責任はすべてあなたのものです。つまり何があろうが、どんな苦しみが――ここで重要なのは、苦しみもそうだよ。苦しみも楽しみもすべて神が与え、神が奪うと。
 まあ、もう一つわたしの好きな話で、これは前になんかに書いたけど、あるすごい神の信者がいて。で、ある悪魔がいてね、その悪魔がすごい傲慢で、で、神が、「おう、悪魔。おまえそんなに自信があるんだったら、あの信者のその信仰を崩してこい」と。つまりその信者っていうのは、もうすべては神であって、すべては神に捧げるっていう気持ちがあった。あの信仰を崩してこいと。で、その悪魔は「そんなことはたやすい御用だ」って言って、いろんな苦しみをその信者に与えたんだね。いろんな苦しみを信者に与えて、で、その奥さんと子供を全員殺して、で、その信者自身も病気にして、すごい苦痛の中に放り込んだ。でもその信者はそのときに神にどう祈ったかっていうと、「ああ、神よ」と。「すべてはあなたです」と。「あなたがただお与えになり、あなたがただお奪いになるんです」と。「ありがとうございます」と。そういうのがバクティヨーガの発想なんだね。
 あなたがお与えになり、あなたがお奪いになる。わたしはなんら文句は言いませんと。そういう、なんていうか、誓約っていうか、あの、委任状を書けってラーマクリシュナは言うんだね。「あなたの全権を神に委ねろ」と。
 わたしはね、よくそういう瞑想をやるときがある。その、本当に委任状を書くんです。瞑想の中で紙を用意して(笑)、こう、「神よ」と。「わたしの責任や、」――あの、責任っていうのは、無責任になるって意味じゃないよ。分かると思うけど。「心配やそういったものをすべてあなたにお任せします」と。「あなたへ、わたしの人生すべてを委ねます」って言って、下の方に自分の名前を書いて署名をするんだね。で、こう拇印を押したりする。で、ハイッて紙を渡す瞑想をする(笑)。
 わたしがね、もっと前にした瞑想は、これはちょっとかっこいい話だけど(笑)、こういう瞑想もしたことがある。これはちょっとわたし独特の瞑想なんで、真似する必要はないけど、真似したい人はしてもいいけど。わたしが昔やったまた別のやつは、またこう紙を用意してね、心の中で――まあこれはまさにトンレンなんだけど、「わたしは、今までわたしが積んだ功徳、それからこれから積むであろう功徳の見返りは一切他者のもとに、果報として返すことを契約します」と。で、「他者が作ったすべての苦しみは、わたしの方に頂くことを契約致します」と書いて署名して印を押す。そういう瞑想(笑)。つまりなんとなく、「ああ、すべての魂の苦しみよ来い」とかやってるんじゃなくて、もう契約しちゃうんだね。もう決心をしてしまうというか。そういう瞑想を昔やってたことがある。瞑想っていうかそういうのを思いついて、こう、やったことがある。
 で、もちろんそれも素晴らしいんだけど、今はその神に委ねるっていうのを、まあどっちかっていうとやってるね。で、それもだから一つの考え方です。
 で、そういう感じができたならば、さっき言ったようにすべてはリーラーなんで。だって神に委ねてんだから。すべては神がおやりになってる。「神がわたしを借金地獄に追い込んだ。楽しいなあ」と(笑)。「さあ次は、神はわたしをどうしてくれるんだろうか?」と。「より苦しめるのかな? それとも今度はいきなり幸せにしてくださるのかな? 楽しみだなあ」。こんな感じだね(笑)。もちろんその中で正しい生き方をしなきゃいけないよ。委ねたって言って怠けたりとか、その、悪業を積んじゃいけないんだけど、その、正しい生き方をしつつ、目の前に起こる現象には一切無頓着になる。一切とらわれないと。こういう生き方がまあ最高だね。まあこれはこの「流水」っていう文で書かれてることですね。
 なかなか今日は高度な話ですね。

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