「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(3)
(U)先生、慈悲の瞑想してるときに、例えば、あの、トンレンにしろ四無量心の瞑想にしろ、やってるときにこう、他者の苦しみがなくなって嬉しいとか、他者の苦しみをなくしたいとか、他者の幸福が嬉しいとかそういうのは正しいと思うんですけど、その、やってるときに、ああ他人の、他人の幸せを願う瞑想できるおれってマジすげー、超かっこよくねー?って感じになるんだけど、それって次にそれがどういう結果を招くかっていうと、その、そういうことを実践できてない凡夫と、やってるおれっていう、その明確な区別がバーンってできちゃって、自他の壁をなくすためにやってんのに壁がバーンって……
いや、それは、それはいいです。
(U)いいんですか?
うん。それはいい壁です。
(U)えっ、なんで? だってそれは、だって駄目じゃないですかね?
いや、いいんです。つまりね、あの、本当に壁がなくなるのは最後なんです。つまり今の段階で、その、「おれは自他の区別をなくしたいから、そういうのもなくしたい」って思ってても、あるんです。
つまりその、これはラーマクリシュナとかもお釈迦様も言ってるけども、まあ結局すべては方便なんだね。方便っていうのは、最終的な結果に到達するための、最良のことをやんなきゃいけない。
で、今U君が言ったことっていうのは、まあ『入菩提行論』とかでいったら、「必要なプライド」なんです。つまり、おれはすげーと。ただ、おれはすげーと言って他者を否定しちゃ駄目だよ。否定しちゃ駄目なんだけど、他者と自分は違うっていうのはいいんです。なんでかっていうと――ただ他者と自分は違って、だからこの慈悲を理解できないおまえらは駄目だ、じゃなくて――だから皆さんも早く慈悲を理解できるようになってほしいと。
だからちょっとね、ちょっと極端に言うよ、じゃあ。おれ、すげーと。慈悲をこんなに理解できてると。絶対これをもう、なんていうか、手放さないにしようと。おれはすげーんだからと(笑)。これでいいんです。で、他者の中で慈悲を理解してる人もいるし、してない人もいる。してない人は非常に哀れであると。だからわたしはそのような慈悲を理解できないような状態には決して陥らないぞと。で、今理解できてない人は早く理解してほしいと。
あの、シャーンティデーヴァのさ、『入菩提行論』も、あの――トンレンってさ、結局あれ、『入菩提行論』とかがヒントになってるんだけど、あの、あれにも解説でも書いたけど、自分と他人を逆転させてるでしょ。自分と他人を逆転させるってことは、まだ壁はあるんです。壁はあるんだけど逆転させるだけなんです。だから最後まで壁はなくならない。最初から、だから壁はなくなったって考えちゃって、「いや、おれは慈悲はすごいと思ってもいけない」って思っちゃうと、あの、なんていうかな、間違った優しさっていうか、間違った――つまりその、それは一見正しそうに見えるんだけど、結果が伴わなくなってしまう。
つまり何度も言うけど、すべては方便。すべては結果を出そうとしてるんだね。すべては完全に、例えばU君が慈悲を最終的に身に付けるにはどうしたらいいかっていうことのもとにすべての法は組み立てられてる。それでいったら、まさにいいんです。うん。
だからこれは慈悲だけじゃないけどね。例えば修行してて、「おれってかっこいい」と。「だってほかの人が遊んでるところをこんな一時間も二時間も、なんか瞑想ばっかりしてると。おれってすげくないか」と。で、それは、そのあとが問題ですよと。その、そのあとに、そのあとの段階で他者を軽蔑したら駄目です。それはもちろんね。でもここまでいいんです。「おれはすごい」と。で、ここからさらに、なんていうかな、あの、向上的な方に持っていくんだね。つまりおれは――例えばさ、プライドの一つの例としては「おれはすごい」と。これはいいんです。「おれはすごいから決して他者に対して、プライドや怒りを出さないぞ」と。「おれはすごいからそれができるんだ」と。これは面白い感じでしょ。慢心で慢心を破壊するんです(笑)。「おれはすごいから決して傲慢にはならん」と(笑)。あれ、それどっちなんだって感じなんだけど(笑)。でも、それはいいんです。でもそうじゃなくて、「おれはすげーぞ、バカめー」ってやるのはこれは間違ったプライドなんです。
(U)ああ、僕そういうのときどき出ちゃう。
そう、だからまず「おれはすげー!」まではいいんです。この先が問題(笑)。「おれはすごいからおまえらはなんなんだ」――これは駄目です。「おれはすごいから、決してこのすごい状態っていうか、慈悲をおれは捨てないんだ」と。「おれはすごいからみんなのために働くんだ」と。こうなったら全く問題ないっていうか、それは必要なんです、逆に。それは密教とか大乗仏教でもいうんだね。誇りって言葉で。
だからそういうのね、よくわかんないで読むと、なんかね、こんがらがってくるんです。なんか誇りとかプライドって言葉がいっぱい出てきて、なんか誇りを持てとか言ってて、で、逆のところでは、あの、誇りを捨てなさいとかやって、「あれ? 同じ言葉使ってて捨てろとか、持てとかなんなんだろう?」と。だからこれは今言ったことなんだね。修行者としての正しい誇りは持ちなさいと。じゃなくて捨てなきゃいけないのは、何も生まないような誇りね。
まあ例えばさ、あの、おれはすごいと。修行者であると。だから人の嫌がることを率先してできるのである、と言って人の嫌がることを率先してやりましたと。これはいいことだよね。プライドが良く作用してる。でもただ「おれはすげーんだ」って言って何もしないと(笑)。「おれはすごいから何もする必要がないのだ」と(笑)。これは全く駄目だってことです。
で、こういう何も生まないようなプライドとか、あと他者をこう排他的に見るようなプライドを否定してるんです。
だからその辺はね、なんていうかな、あの、仏教とか、さっきから言ってるその最近の精神世界の風潮はかなり人情的なんで、今U君が言ったような間違いに陥りやすいんです。あの、いつも言ってる、修行に対する欲求とかもそうだけどね。修行に対する欲求も持っちゃいけないとか言う人がよくいるけども、それは持たなきゃいけない。修行者としてのプライドも持たなきゃいけない。で、そこらへんを人情的な感じで、「いや、そういうのも駄目なんですよ」ってなっちゃうと、もうなんていうかな、あの、非常に重要なわれわれの推進力を失ってしまうんだね、われわれは。
だから変な言い方するとわれわれは、理想としては二元を超えなきゃいけないんだけど、今は確実に二元の中にいるんです。完全にわれわれが二元から解放されるのは、遥か先なんです。だからそれまでは逆に、さっき言った二重焦点って感じで、二元を超えた世界をある程度理解しつつも、二元を利用するんです。二元の中にいて結果的に自分や周りが幸せになる方向で、二元性を利用するんです。
(U)「毒をもって毒を制す」って感じですか?
まあそう言ってもいいけど、つまり結局二元の中にいるんだから。あの、頭や言葉で、いやそれは二元ですからとか言っても、どっちにしろいるんです、二元に(笑)。何度も言うけどね。だから逆にそれを利用する。利用するっていうか、活用しなきゃいけない。だからそれは、さっきのことを具体的に言うと、「慈悲の瞑想をやっているおれはすごい」と思ってそれはオッケー。その先が問題なんだね。