「自我の放棄」と「愛の完成」(3)「『私の』よりも『神の』を取る」
さて、以下は付け足しのようなものですが、実は今回一番書きたかったことでもあります。
基本的には上記の「三つのポイントの実践」に書いた、三つのポイントを実践していけばいいわけですが、今回はもう一つ秘儀的ポイントを加えましょう。
ただ、これは一般的にはちょっと厳しい話でもあるので、あくまでも本格的に修行を進めていきたいという人向けの話として聴いてください。
これは具体的にはケースバイケースなので大まかにしかいえないのですが、
「自分の欲求」ではなく「神や聖者の意思、好み、教え」を、あらゆる場面で選択し、供養する、ということです。
たとえば一般的に挙げやすい例として、食べ物があります。
まあ誰かが食事を作ってくれるような環境の場合は、それを神から与えられたものと考えてありがたく供養しながらいただけばいいのですが、そうではなくて自分で食事を作ったり、あるいは外食をするような環境にある場合、決して、自分の好きなものは選ばない実践をするのです。そして神や聖者や自分の師が好きなものを選ぶのです。
神や聖者が好きなものというのも変な話かもしれませんが笑、聖者や神も、一応、この世における一つの個性、フォームを持っていますので、好まれるものというのがあります。それを調べて、それのみを選択するようにするのです。
ただ、たとえば日本人の師がいる場合はいいですが、日本人の師がおらず、たとえば師がインド人で、好きな聖者も全員インド人の場合、毎日カレーを食べなければいけなくなるかもしれないので、それはあまり現実的ではないですね笑。その場合はこの方法は使えませんね笑。
まあ食べ物というのは例としてあげやすいのであげましたが、とにかくあらゆる選択の場面において、「私はこれが好きだから」ではなく、「神がこれを喜ぶから」「師や聖者がお好きだから」「教えでこうなっているから」という観点で選ぶことを繰り返し、「私」「私の」「私が」といった選択を極力少なくしていくのです。
また、ある選択において、どれが教えに則っているか、神の意思か、わからない場合は、心の中で神や聖者や師に尋ね、インスピレーションを受けるといいでしょう。
もちろんそこで生じるインスピレーションには、エゴが含まれ、間違う場合もあるでしょう。
しかしそれでも、そういうことをやらないよりは、やったほうがずっといいです。
この教えは本当にケースバイケースなので、日々そういうことを心がけて、いろいろな場面に当てはめて、いろいろと実践してみてください。
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