yoga school kailas

「聖者の生涯 ナーロー」⑤(4)

◎菩薩行の重要性

 はい、じゃあここまで何か質問その他ありますか。

(S)先生、今のお話だと、そういうふうに感じちゃうと実社会で生きていくのがすごく大変になってきたりとかしますか?

 そうだね、それは二つある。二つあるっていうのは――一般的には大変です。一般的にはっていうのは、ヒマラヤとかで修行してるようなヨーガ行者の理念っていうか、あれをそのまま持ってきたら――そのまま持ってきたらですよ――修行者っていうのは、ある段階から世間ではやっていけなくなります。これが第一の段階ね。
 で、もうこの次に言おうとしていることは分かると思うけども、菩薩行をやってれば大丈夫(笑)。菩薩行をやってれば大丈夫っていうよりも、この世界に足を踏み入れたままで自分をその領域に持っていこうとするのが一つの菩薩行なんだね。
 だから、もう一回まとめますよ。一般的な修行の論理からいうならば、ある段階にいくともうその人は世間で生きていけなくなります。だから世間からある意味離れなきゃいけないんだね、逆に言うとね。だからそこで選択が出てくる。ここまで来ちゃったら、もう世間から離れるか、山に篭るか、もしくはもうそこで修行をストップするか。ストップしてちょっと落ち着けて「ここから先は無理だから」っていって、もうその段階で終わって世間で生きていくか、どっちかしかない。一般的にはね。
 でも菩薩行はそうじゃない。菩薩行っていうのは、いってみればキャパシティを広くするんだな。キャパシティを広くするっていうのは、そうですね――ちょっと若干関係ない話になるけども、この間、水曜の勉強会のときに、今だから言うけど、わたしは見て知っている通り、歯がとても悪いわけだけど(笑)、ほとんど歯医者とかも行かないでずーっと放っといているわけですけど(笑)、放っといてるとどんどん――ヨーガしても虫歯治んないからね(笑)。

(一同笑)

 あの、痛みには強くなるけども、虫歯は治んない(笑)。で、放っといているとたまに痛くなって、しまいには歯が崩壊していくわけだけど(笑)。まあそれはいいとして(笑)、この間の勉強会のときにすごい激痛が走って、もうあり得ないぐらいの激痛だったんです、実は。もう本当は「ああ!」って、のたうち回るぐらいの激痛だったんだね。でも普通にこう勉強会してたわけだね(笑)。
 つまりこれは――この場合は痛みだけども、もちろんわたしは修行してるから、ある程度のそのキャパシティがあるわけだね。つまりその痛みは痛みとして置いておいて、普通に例えば勉強会をやったりとか、みんなの質問とかに別にいつも通りこう答えられたりするだけのキャパシティはある。
 で、それと同じような感じで、自分の問題としてさっき言ったように、普段よりも深い世界に突っ込み、そしてこの世界の見方が全く変わってきましたと。しかし普段から、例えば自分のエゴよりもみんなの幸せを願うとか、あるいはこの社会生活の中で自分だけをガチガチに守って修行するんじゃなくて、人との関わり合い自体を修行の場と考えてね、やっていくような菩薩行をやってると、そのキャパシティみたいなのが生まれるんだね。
 これはちょっと一般論としては言いにくいので、さっきのわたしの勉強会の例えで言うとね、例えば勉強会をやるとして、で、わたしの個人的問題としては、完全にもうそういうさっき言ったようなレベルの世界に入ってしまっていると。例えば「なぜわたしはMくんっていう実体を信じてしまっているのだろうか」みたいな世界に入ってるんだけども、でもそこに引きずり込まれないっていうか。例えば必要があるんだったならば、つまり歯の痛みがあっても全く関係なくいつも通りに接せられるのと同じように、必要があるんだったらその人にあった対応ができるという状態はあるんだね。これはもう完全にキャパシティの世界なんです。
 だから菩薩行っていうのはね、いかに上に上がるかっていうよりも、上がりつついかに広げるかっていう世界なんだね。で、このキャパシティが広ければ広いほど、今言ったような、どんな環境でも――つまりどんな環境でもっていうのは相対的な問題だからね。例えばもっともっとひどい環境とかだったら駄目かもしれないけど、でもある段階まではキャパシティが広ければ、その中で十分修行ができるんだね。これもだから大乗仏教の展開のそもそもの思想なんです。
 つまりどういうことかっていうと、大乗仏教が生まれた背景っていうのは、もともと原始仏教の流れの仏教徒達がね、言ってみれば僧院仏教にちょっと成り下がってしまってたというか。成り下がってるっていうか、別に修行者としてはいいんだけども、みんな僧院に篭って人々と接さずに、自分達だけのエリート集団みたいのを作って、「世間はけがれである」という中で、自分達だけでその僧院の中で清らかさを保っていたような時代があったんだね。まあそれはそれで生き方としてはいいんだけども、でもナーガールジュナとかああいう大乗仏教を提唱した人っていうのは、それでは駄目だと。そうじゃなくて、いってみれば、今言ったね、世間の中でキャパシティを広げながら――もちろん世間に飲み込まれてはいけないよ。飲み込まれずに、さっきから言っているような深い問題にどんどん切り込んでいきながら、同時にこの世間への慈悲を発すると。あるいは世間でのさまざまな周りとの関係における菩薩行を進めていくと。これが大乗仏教の道なんだね。
 この道を進む人っていうのは、もう一回言うけども、キャパシティが広がるんだね。いつも言うように、例えば大海に小石を一個投げ込んでもほとんどど変わらない――っていう感じで、自分のある種のエゴの崩壊からくる、非常に普通とは違うような意識状態が起きてたとしても、普通にやっていけるんです。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする