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「聖者の生涯 ナーロー」⑤(3)

◎魚と蛙

【本文】

 再びナーローは旅を続け、魚のたくさんいる湖のほとりにやってきました。その近くで老夫婦が畑を耕し、あぜにいる虫を殺して食べていました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、老人は、
「わしらの家にいたよ。だが、案内する前に……おーい、ばあさん。このお坊さんに何か食べさせてやりな!」
と言いました。それを聞いて老婆は、網の中から何匹かの魚と蛙を取り出して、それを生きたまま調理しました。ナーローに食べるように勧めると、ナーローは言いました。
「私は僧ですので、午後には食事をいたしません。それにまた、私は肉を食べません。」
 そしてナーローは、
「私は、自分のために、魚と蛙を生きたまま調理させてしまったことで、仏陀の教えを破ってしまった」
と考え、惨めな気持ちで座り込んでしまいました。そこへ老人がやってきて、老婆にたずねました。
「このお坊さんに何か食べ物を用意してあげたかい?」
 老婆は答えました。
「この人、バカみたいだよ。食べ物を作ってあげたのに、食べたくないんだとさ……」
 老人は、鍋を火の中に投げ入れました。すると魚と蛙は空に飛んでいき、声が聞こえました。

『習慣を作り出す思考に束縛されていては
 グルを見出すことは難しい。
 習慣を作り出す思考というこの魚を食わずして、
 もろもろの(自我の意識を強める)快楽を渇望していては
 どうしてグルを見出せようか?
 明日はわが両親を殺すとしよう。』

 老人は消え、ナーローは気絶して倒れました。

 はい、今度は畑を耕し、そこにいる虫を食べている老人と出会います。で、このナーローの話は昔からね、いろいろな人がいろいろな解釈をしてるわけですけども、その一つの説によると、このグルを探しているこの一連のヴィジョンの中の、大体その前半はナーローの怒り・嫌悪の現われであり、中盤が執着の現われであり、で、後半――この老人の話辺りから無智の現われになるというふうな説があります。だからこのエピソードっていうのは、一つはナーローの心の無智の現象化っていうかな、心の現われであるといえる。
 はい、ちょっと物語を見ると、お爺さんお婆さんが畑を耕し、そこにいる虫を食べてると。はい、そしてそこにナーローがやってきてティローのことを聞くわけだけども、そのお爺さんお婆さんがナーローに食事を与えようとするんですね。で、生きたままの魚と蛙を調理してナーローに出したと。
 はい、ここでナーローが、まず自分は午後には食事をしない。そして肉を食べない。そして生きたまま調理させてしまったことで仏陀の教えを破ってしまったという一つの後悔をしているわけですけども、まずここをちょっと表面的な解説をすると、仏教の特に出家修行者っていうのは、一つの決まりとしてね、午前中だけ食事をするっていう決まりがあったんだね。
 それから肉を食べないっていうのは、昔のお釈迦様の時代とかっていうのは本当に森に住んでね、托鉢をしていたわけだから、別に肉だろうが何だろうがもらったものは食べるっていう決まりがあったわけだけども、この頃は完全に僧院っていうのができて、つまり守られた大学みたいな立派なお寺ができて、そこで食事が配給されるような時代だったんだね。だからその決まりとして、そもそも最初から肉を出さないっていうか。お坊さんは基本的に菜食主義っていう、これは教えというよりは一つの決まりがあった。
 で、もう一つ、これもいつも言ってることだけど、例えば托鉢とかで肉が出てきてもそれは別に食べても構わないわけだけど、自分で殺す、ね、これはもちろん駄目だと。あるいはこの例のように、自分のために誰かが生き物を殺して調理すると。この条件が整った場合、それはその人の殺生になっちゃうんだね。だからいつも言うように、われわれが寿司屋さんとかに入って注文して、注文してからもし殺されたとしたら、それはもう自分の殺生になっちゃうんだね。だからそれは気をつけなきゃいけないわけだけど。
 で、ナーローはだからここでそういう状況を作ってしまった。つまり自分のためにお爺さんお婆さんがね、生き物を殺して出したっていうこの状況を作ってしまったことによって、わたしは罪を犯してしまったってすごく嘆くわけだね。
 はい、で、ちょっと話を戻しますが、ここは無智・迷妄についてのセクションであると。これは何を意味しているのかっていうと、もともと無智っていうのは皆さんのイメージだとね、まあよく愚鈍っていう言葉があるけども、愚鈍と混同しがちなんだけども。つまり「何もしない」――これが無智じゃないんだね。無智っていうのは結構行動的だったりします。
 これは『バガヴァッド・ギーター』とか見ると分かるけど、『バガヴァッド・ギーター』でよくラジャス・タマス・サットヴァのね、いろんなパターンが挙げられてる。で、それを見ると、大体サットヴァってもちろん正しい生き方なんだけど、ラジャスっていうのは欲望に満ちて自分のプライドとかを満たすための行動とかね、そういうのが大体ラジャスに分類される。じゃあタマスって何なのかって言うと、タマスは何もしないわけじゃないんです。いつも間違ったことをやっているんですね(笑)。いつも間違ったことを一生懸命やる。これが大いなる無智なんだね。
 で、まさにこのお爺さんお婆さんは一つのその無智のあらわれ――つまりこのお爺さんお婆さんはもちろん悪い人ではない。逆に善意の塊なわけだね。だって訪ねてきた人に無条件で食事出してあげようっていうわけだから。「ああ、来たか」と。「待って。今、美味しいものを食わせてやるよ」て言って殺すわけです。ね(笑)。で、出すと。これが一つの無智の表現っていうかな、現われなんだね。
 だからわれわれは、無智っていうものの本当の意味を知らなきゃいけない。もう一回言うけども、無智っていうのは、言ってみればこのエピソードもそうだけど、このいくつかのエピソードに出てくる「習慣的な思考」っていう言葉がある。習慣を作り出す思考とかね。で、この習慣の思考、これに完全に絡めとられ、それによって何が善で何が悪なのか。何が自分を幸福にし何が不幸にするのか。あるいは、何が相手のためになり何が相手のためにならないのかっていうのが全く転倒した――つまり単に「分からない」ではなくて、完全に勘違いした状態で一生懸命不利益なことをやってると。これがいってみれば無智なんだね。
 だからそれが一つのこのあらわれであるといえる。

◎習慣的思考

 それが一つのナーローのけがれの現われなんだけども、そうじゃなくて肯定的な修行のアドバイスという意味でここをとらえるならば、この耕す、あるいは耕したり、あるいは魚を網で捕る。こういった作業っていうのは、修行のことを表わしてると考えていいと思います。
 実際、農作・耕作とかっていうのは修行の例えとしてよく使われるわけですけども――一生懸命修行すると。はい、一生懸命修行することによって虫が出てきます。ね。あるいは魚が網にかかります。これが――これを見れば分かると思うけど、「習慣を作り出す思考というこの魚を食わずして」って書いてあるね。つまりそれが習慣的思考。
 これはさっきから言ってる話にも繋がる。つまり、われわれが一生懸命修行することによって、気づかなかった、われわれの奥に巣くっている、根づいている習慣的な間違ったものの考え方、習慣的な思考パターン、執着とか怒りとかその他のいろいろなパターンが露わになってくる。
 で、これは普通はなかなか気づくのは難しいんです。なかなか気づくのは難しいっていうのはなぜかっていうと、一つはもちろんね、そこまでこう自己認識ができないっていうのが一つだけども、もう一つは、ある程度自己認識ができたとしても――考えてみてください。この習慣的思考っていうのは、つまり考え方のベースになっちゃってるから、なかなかそれには気づきにくいんだね。自分の考え方のベースの上にあるものっていうのは気づきやすいけども、それがもうベースになっちゃってるから、それをベースに物事を見たりしちゃってるから、非常に気づきにくい。もともと自分のものの見方のパターンが、はなから間違ってるんだよっていうことになかなか気づきにくいんだね。
 ただまあ、みんなの場合っていうか、法・教えに縁のある人っていうのは、ある程度までは教えで切り込めます。例えば『入菩提行論』なんていうのは一番いい例だけどね。『入菩提行論』なんて、みんなもそうだと思うけど、最初に読んだころっていうのはちょっと驚いたかもしれない。「え? 何この考え方?」と。あるいは「八つの心の訓練」とかもそうだけどね。例えば、常に相手に勝利を与えなさいとかね。あるいは「え? それ自分悪くないじゃん」っていうところでも、相手に譲ったりする考えであるとか。あるいは、自分と相手を完全に交換する考えであるとか。あるいはここでよくやらせてるトンレンね、慈悲の瞑想の考えであるとか。ああいうのを最初に学んだりしたときっていうのは、ちょっとエゴがびっくりするかもしれない。「え? 何、そんな考え方あるの?」と。あれは一つの習慣的思考に対する大いなる切り込みなんだね。それですべてが変わるとは言えないけども、でも「根本的にわたし間違ってたのかな?」っていうちょっとした気づきにはなるんだね。ああいう感じで、習慣的な根本的な思考っていうものに修行していれば気づくようになる。
 今言ったのは教えによる気づきだけども、それだけではなくて、修行を進めるうちにどんどん自分がサットヴァになっていって、いろんな現象が起きるわけだね。さっき言ったようにいろんな苦しい現象が起きたり、心がすごく乱されたりすることが起きるわけだけども、それを通じて、そもそもこの乱れ――まあ最初はね、すべて他人のせいにするんです。いろんな苦しいことが修行で起き出して、でもそれを周りに全部ぶつける。「いや、あの人はこうで、あの人はこうで」とかね。あるいは「この環境はこうで」とか。でもそれでも真面目にその人が誠実に修行してると、あるときから、「あれ、全部自分のせいだったのかな?」と(笑)。そもそも要因ていうかな、この苦しみやわたしの心を乱している原因の大もとは、自分のこの誤った考え方にあったのかもしれないな――ということにうっすらと気づいてきます。
 もしこれに気づけたとしたら、それは大いなる進化です。これはものすごい進化というか、ある意味一つの悟りといってもいいぐらいのものです。幸せではないけどね、別にね(笑)。逆に苦しいかもしれないけど。でもすごい心の進化といってもいい。
 これはわたし個人、わたしの修行者としての経験でもいえるし、あるいはわたしがいろんな人を指導してる経験でもいえます。かなり気づくのは大変です。結構頭のいい人でも、修行の素質がある人でも、かなり気づけないんです。もう本当に何て言うかな――何て言ったらいいかね――つまり自分の頭にね、例えば額とかに何かクリームとかついてても気づけないようなもんです。ね(笑)。「あのクリーム、どこに付いたんだろう?」って言って(笑)。で、人にもついてるから「お前たちー!」とか言ってるんだけど(笑)、自分にも付いてるっていうのに気づくにはもう相当大変なことなんだね。もう全く何ていうかな、首回しても駄目なんです。首回しても付いてくるから、それはね。全く気づけない。
 でもそれに気づいたときに、大いなる――ある意味ショックなわけだけど、心の変革の――それだけでは変革しないけども、変革の第一歩が始まるんだね。
 はい、だから話を戻すと、そのように修行によって心を耕し、あるいは漁をするように修行を進めていると、ここで表わされる虫や魚のような形で、気づかなかった習慣的思考っていうのがバーッて出てきますよと。そうしたら当然、それを打ち砕かなきゃいけないんだね。まあそれがここで言う「食べる」っていうことですけども。しっかりと打ち砕かなきゃいけない。
 じゃなくて、その習慣的な思考を逆に強めるようなことっていうのは、楽なんです。楽だし気持ちいいんです、そっちの方が。これは今曖昧な言い方をしているけど、多分分かると思うけどね。
 もう一回言いますよ。皆さんの習慣的思考をよりガチガチに強めるような生き方、考え方っていうのは、とても気持ちいいんです。ですから、われわれはそれを求めたがるんだね。で、求めることによって、それを経験していることによって、そのガチガチな習慣的な思考はより強まります。だからそれはやっちゃいけないよと。そうじゃなくて、修行によってガチガチの習慣的思考にまず気づき、それを一つ一つ打ち砕いていかなきゃいけないんだね。

◎聖なるシステム

 はい、そしてそうしなければ「どうしてグルを見出せようか?」と。この「どうしてグルを見出せようか?」っていうのは、前も言ったように何度も何度もここで出てくるわけだけども。前も言ったけど、もう一回言いますよ。ここで言ってる「グルを見出せようか?」っていうのは、まあそうですね、二つ意味があると考えたらいいね。一つは表面的な意味で、つまりあなたを導いてくれるグル、聖なる師というものにそんなのじゃ出会えませんよっていってるのが表面的な意味だね。で、もう一つの深い意味は、さっき最初に言ったこととも関わるわけだけど、単純に目の前に現われている人間の姿としてのグルだけではなくて、この自分を導いてくれているシステムっていってもいいのかもしれない。
 つまり何回かね、こういう話はしてるけども、つまりわれわれはもう既に今の段階で大いなる幻影の中、幻の魔的なシステムの中にいるんだね。で、この魔的なシステムの中に、実はそうではない聖なるシステムも混ざってるんです。で、この聖なるシステムを「グル」といってもいい。で、その一番分かりやすいあらわれが人間の姿をしたグルなんだけど、実際はそれは一つの表現に過ぎなくて、皆さんを導こうとしている一つの力っていうかな、それがこの大いなる幻影の中で働いてるんだね。だから、そこにわれわれは焦点を合わせるっていうか、それに気づかなきゃいけないんだね。
 だからこれはすごく曖昧にしか言えないわけだけど、「一体グルって何なのか?」っていうことに、ある段階から気づいてくる。それがだから高度な意味での「グルを見つける」っていうことと言ってもいいのかもしれない。
 だから逆に言うと、われわれが習慣的な思考にとらわれるイコール、本当の意味でありのままにこの世を見るんではなくて、自分が勝手に作り出した観念によって、その観念の世界を見ているに過ぎないっていうことですね。
 ただそれでは一生、永遠にありのままに見れないわけだから、グルを探すこともできないし、あるいはこの世の本性みたいなものを見つけることもできない。 そうですね、いつも言うけどもそういう意味では、われわれはずっとマスターベーションをしているようなもんです。つまり自分で勝手に作った世界で、自分で喜んだり悲しんだりしてる。これがわれわれの人生だね。それが習慣的思考ってやつで。だからこの習慣的思考を打ち砕きなさいよと。
 で、いつも言うけどもね、この習慣的思考をまず見つけるのが大変なわけだけど、で、見つけて戦って打ち砕くのも大変なんだけども、その打ち砕きはじめたとき、壊れはじめたときに、恐怖が襲うかもしれません。つまり、ちょっと土台がなくなったような意識に陥るかもしれない。あるいはね、祝福があれば、祝福があったりとかあるいは密教的なカルマがある場合っていうのは、自動的に打ち砕かれる場合もあります。自動的にっていうのは、自分でそうしようと思ってないんだけど、現象がね、自分の習慣的な思考を露わにし、勝手に打ち砕いてくれるような現象が起きはじめる。
 ただこの道で唯一必要なのは、帰依です。帰依。帰依っていうのはつまり、自分のグルや神に対する帰依。なぜかっていうと、この道で唯一必要なのは、逃げないっていうことだけなんです。ね。普通は逃げちゃうんだね、当然ね。いろんな言い訳をしてね、言い訳をしてその状況から逃げてしまうわけだけど。じゃなくて、逃げられない状況っていうのが作られていて帰依がしっかりしていれば、逃げないっていうことによって自動的に自分の深い習慣的な思考が露わになり、破壊されていくプロセスっていうのが起きるんだね。これはだから、バクティ・ヨーガとかあるいは密教とかの道では起きやすいパターンですね。
 まあどちらにしろ、そういう形で自分の習慣的思考が壊れてくると、最初のうちは大いなる恐怖を感じるかもしれません。それは自分が信じてた世界が土台から崩されるわけだから。でも、それが何度も言うけども、ありのままに見るための第一歩なんだね。
 だから、こういう話をしているとだんだん皆さん分かってくるかもしれないけど、つまり今この時点での皆さんっていうのは、あるセーフティゾーンっていうか、ある安全領域の中で今教えを学んでるんです。皆さんが今持ってる安全領域みたいなのがあるんだね。「わたしはこうで、わたしはこうで」っていう狭い箱みたいなものを、今皆さんは持っている。狭い箱の中で、皆さんは今修行したり教えを学んだりしているに過ぎない。その中でいろいろ理解しているだけなんです。でも真の理解に進むには、この箱をぶっ壊さなきゃいけない。
 でもこれは大変な恐怖です。ぶっ壊すどころか、ちょっと顔を出しただけでも恐怖です。ちょっと窓が開いたと。ね(笑)。「あれ、ちょっと顔出して見るかな?」って顔出しただけで、うわってすぐに引っ込めてしまう。それくらいの土台が崩される恐怖っていうのがあるんだね。でもまあ崩さなきゃいけない。
 で、崩すと、何て言ったらいいか分からないけども、崩すと、今皆さんが考えるのとは全然別の形での修行が待っています(笑)。皆さんが今やってる、「さあ、いかにクンバカをのばすか」とかね(笑)、あるいは普通に「わたしは今、『入菩提行論』とか読んで怒らないようにしよう」とかいうのとは、もうちょっとまた違った修行が待っています。それは何とも今の段階では言えないわけだけど(笑)。
 つまり、皆さんがより真実に気づくための修行――っていうかさ、ちょっとまた話を戻すけども、そもそもは、でも土台がないとね、教えって学べないんです。土台がないとね。だから常に土台には帰る必要があるんだけど。言ってみれば、例えばこういうところで教えを学ぶときにね、皆さんがある意味、本当に自分の心を改革していくような世界に突っ込んだ状態の場合ね、論理的に教えがあまり入ってこないかもしれない。ちょっと違う領域にこう入ってしまってるからね。だからまず最初の段階で、しっかりと教えを学んでおく。で、それが皆さんがいろんなその領域に――ここで突っ込むっていってるのは、別に瞑想とか深い意識に突っ込むっていうことをいってるんでもないんだね。何とも表現しづらいんだけどね。
 例えば皆さんは普通にこの世を生きている。で、皆さんの脳波も正常であると。深い潜在意識に入ってるわけでもない。しかし観念が崩れだすんです。そうすると、問題がちょっと違ってくるんです。問題が違ってくるっていうのは、もう一回言うけども、「さあ、『入菩提行論』を読んで、いかにわたしの怒りをなくそうかな?」――これは素晴しい修行のテーマだよね。でも、問題がちょっと違ってきます。あえて言うならば――そうだな、例として挙げるならばね、「わたしがわたしと感じでいるこの感覚、何か違うみたいだぞ」と。ね(笑)。「いかにこれを壊そうかな」とかね。で、それが、今皆さんが多分思っているような論理的な解釈ではなくて、実感として出てくるんだね。
 ちょっとじゃあ、今の例として言うならばね、例えば怒りっぽい人がいるとしてね、怒りっぽい人が、「でも怒らない方が、相手に愛を向けた方が安らぐな」っていう経験がある場合ね。この場合、皆さんが『入菩提行論』を読んで「怒りをなくしていくぞ」っていうこの働きっていうのは、とてもリアルなものでしょ? だって普段から怒っている自分がいて、怒らないときの安らぎを自分は理解していて、だから『入菩提行論』を読んで、怒らない自分を作っていこうと。これは非常にリアルだよね。でもね、正直言って今の皆さんで「はい、自我をなくしましょう」といわれてね、あんまりピンとこないでしょ(笑)? 頭では分かるけども、あんまりリアルじゃないよね。でも、それがリアルになってくるときがあるんです。今の「怒りをなくそう」ぐらいのレベルで、「あっ、自我なくさないとな」みたいな感覚が出てくる。これは自我だけじゃないんだけど、その深いレベルでのちょっと問題が変わってきてしまうんだね。
 例えば例をあげるとね、例えば「Tさんに怒りが出てしまう」とかね。あるいは「Mくんに執着が出てしまう」とか「Aさんに嫉妬が出てしまうんです」。こういうレベルからもちろん始めなきゃいけないんだけど、そもそもそういうレベルの話じゃなくなってくるんだね。「Mくんって幻影が見えてるんだけど、どうしたらいいでしょうか」と(笑)。「Mくんって存在を実体視してるんですけど」っていう、そういうレベルに問題が変わってくるんです。何度も言うけども、これはリアルに変わるんです。そういう発想もしましょうね――じゃなくて、問題点がリアルにちょっと深まってくるんだね。
 だから最初から言っているように、こういう話っていうのは、言葉で解説できるようなものではない。でもまあ皆さんがこういう話をしっかり学んでいれば、いつも言うように、その段階にきたときの助けにはなるでしょうね。

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