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「真理に満たされた智慧」

◎真理に満たされた智慧

【本文】
『ニルヴィチャーラ・ヴァイシャーラディェーディヤートマプラサーダハ

ニルヴィチャーラの瞑想が曇りなき状態に達したとき、内面的静寂が生ずる。

リタムバラー タトラ プラジュニャー

その内面的静寂の中に、真理に満たされた智慧が生ずる。

スルターヌマーナプラジュニャービャーマニャヴィシャヤー

伝承や推理から得られる智慧は普通の対象に関するものである。今述べた智慧とは、はるかに高い段階のものであって、伝承や推理の貫通し得ないところまで到達しうる。』

 はい。まずニルヴィチャーラ、微細な分別さえなくなった状態が曇りなき状態に達したとき。これは非常に曖昧な表現ですね。これを仏教ではもっと細かく分類しています。これが第三サマーディと第四サマーディです。仏教の言い方をすると、第三サマーディに到達する――第一サマーディと第二サマーディでは、心の喜びと心身の強烈なエクスタシーがあるんだけど、第三サマーディにおいて、心の喜びというのはなくなります。純粋なエクスタシーのみの世界があって、そこにおいて純粋な念のみが残る、というかな。純粋な念っていうのは、それは仏陀への念でもいいし、教えの念でもいいんだけど。それが残って、心が止まっているんだけど、この世の歓喜ではない歓喜状態がある状態があります。 その最高に達した歓喜さえも――「不苦不楽」っていうんだけど、二元を超えていくんだね。歓喜と苦しみのない――ないっていうんでもないんだけど、歓喜とか苦しみとかそういう世界を超えてしまう。これが第四サマーディ。これがここで言っている、「内面的静寂」ですね。
 非常に曖昧なんだね、この書き方っていうのは。前まで静寂とか言っていて、ここで内面的静寂が生じるとか出てくるんだけど――だから仏教のサマーディの説明とかを聞いていると、非常に分かりやすい。これは第二サマーディのことをこの前まで言っていて、そこから先ちょっとはしょって最後のこと言ってるなっていうのがよく分かる(笑)。第四サマーディの完全なる不苦不楽の静寂状態があるんだね。それが――ちょっとはしょられてるけど、「ニルヴィチャーラの状態が、曇りなき状態に達したとき」という言葉で示されてる。
 はい、そしてそこでやっと、真理に満たされた智慧が生じる。つまりこれが仏教でいうところの「正観」――正しい智慧の瞑想になります。これは相当はしょっています、この説明っていうのは。寂静のサマーディが究極状態に達して、そこから生じる真理を直接的に正観する状態がやってくるんだね。これがここで言っている「真理に満たされた智慧が生じる」。それは伝承や推理から得られる智慧ではないんだと。
 伝承や推理から得られる智慧っていうのは――まず伝承の智慧っていうのは、昔の聖者が悟ったものを伝えられてきたと。いつも言うように、聖者が悟ったものというのは、実は言葉にできないものなんです。 言葉にできないんだけど、しょうがないから言葉にしたものなんです(笑)。それをわれわれが見て感動するのは、それは素晴らしいことなんだけど、でもそれは近似値までしか行けないんです。そのものをわれわれは感じられないんだね。すごい近いところまでは感じられるんだけど、そのものには行けない。
 もう一つ、推理によるもの。これはつまり分析によって――あ、お釈迦様はこう言ったと。こうでこうでこうだから、そうだこうなんだ、っていう悟りは確かに素晴らしいんだけど、これも行けないところがある。つまり直接われわれが見なきゃいけない悟りがある。これがここで言っている、伝承や推理の貫通しえないところにある真理っていうことだね。つまりこれは、ヨーガや仏教でも同じだけども――だからいつも言うけども、仏教でいうヴィパッシャナーっていうのは、決して浅い心の観察じゃないんです。段階的にはそれもあるんだろうけど、本当に言っているのは、心の奥にある、言葉さえもそこに入れないような、直接認識をしなきゃいけない真理の状態があるんだね。悟りの状態っていうか。それに対する観察なんです。それによって智慧を得る。

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