「熱のヨーガから他のヨーガへ」
解説・ナーローの6ヨーガ⑥
◎熱のヨーガから他のヨーガへ
はい、今日は六ヨーガですね。
六ヨーガはいつも言うように、インドからチベットに伝わった教えですが、クンダリニー・ヨーガ系の教えだね。つまり生命エネルギーを覚醒させて、それによって悟りや解脱、あるいはその中間のさまざまな修行を達成していこうという修行ですね。
これはナーローの六ヨーガというだけあって、インドのナーローあるいはナーローパと呼ばれる聖者からチベット人のマルパに伝えられ、チベットに伝えられました。
そのマルパの流れを汲むのがチベットのカギュー派という派なので、そのカギュー派を中心に伝わっているんですが、実際にはカギュー派のみならずチベット仏教全体のね、大きな中心的な教えの一つになっています。
これはカギュー派の場合は、マハームドラーっていう教えとこの六ヨーガの教えがセットになっています。
つまりマハームドラーっていうのは――あまりエネルギーとかは使わずにストレートに心の中心にアクセスして、心の本質を探ろうという修行だね。で、この六ヨーガはそうじゃなくて、さまざまなエネルギー的なシステムを駆使して、さっきも言ったように、さまざまな悟りや解脱のプロセスを速やかに達成しようというシステムね。
で、カギュー派っていうのはその二本柱になってるわけですが、実際問題としてはカギュー派のみならずあらゆる修行っていうのはその二本柱といってもいい。つまりクンダリニー・ヨーガ的なシステムと、それからそうじゃない、エネルギーは無視してただ心に集中するシステム。この両方が備わっていれば、非常に速やかにわれわれは修行を達成できるんじゃないかと思います。
で、その六ヨーガというわけですけども、その六ヨーガの中心になるのは、このあいだまで勉強会でやってた熱のヨーガっていうやつですね。熱のヨーガ、あるいはチャンダーリの火のヨーガってなってますが、このチャンダーリの火、熱のヨーガ、これがクンダリニー・ヨーガみたいなものなんですが、今日はそこから派生した幻身、光明、夢――こういった修行に入っていきます。
これはバラバラに分解できるものじゃなくて、今言った熱のヨーガ、あるいは火のヨーガと呼ばれるものの延長上にあると考えてください。その熱のヨーガなしには、これらの幻身や光明や夢といわれるものは、まあ、ありえないというかな、達成できないと考えてください。
◎基礎的な幻身と清浄な幻身
【本文】
◎チャンダーリーの火のヨーガによって、幻身と光明と夢の修行を修習する方法
生命エネルギーが中央管に入り、とどまり、溶け込むというプロセスが生じないと、「アーローカ(輝き)」「アーバーサ(増大する輝き)」「ウパラブダ(達成直前)」という三つのサマーディは生じない。
この三つのサマーディが完全に生じることで初めて、完全な幻身を成就するのである。
幻身のヨーガの修行においては、まず、自分の身体が影像のように実体がないものであることを様々な方法で理解していき、さまざまな好き・嫌いの分別を断じ、一味平等にしていく。これが基礎的な幻身の修行である。
そして自分の身体をイダムであると観想し、苦と楽を一味平等として悟っていくのが「清浄な幻身」の修行になる。
まず幻身といわれる修行ね。で、まず最初に書いてあるのは、生命エネルギーが中央管に入り、留まり、溶け込む。これはその前の熱のヨーガ、火のヨーガね、あるいはクンダリニー・ヨーガの一つの大きなポイントになります。
つまり、体のど真ん中を走っている中央気道がありますよと。この中央気道っていうのは、誰でも持ってるんだけど普通の人は使ってない。あえていうならば、死のときに使います。われわれが死ぬとき、この中央気道にエネルギーが入り、そしてそこから心臓にぐーっと気が集まるんだね。でもわれわれはまだ死んでいない。この死んでいない状態で、この中央気道に気を入れられるのは修行しかないんだね。修行の力によってそれが達成されたとき、われわれの生命エネルギーが中央気道に入りこみます。言ってみれば、ここから本格的な本当の意味での神秘的な体験が始まるといってもいい。
なぜ「本当の意味での」っていう言い方をしたかっていうと、つまり、別の言い方をすると、その前の神秘体験というのはちょっと予行演習みたいなもんであって、もしくは魔境です(笑)。悪い言い方をすると魔境です。つまり意味がない。しかし実際は、本当は全く意味がないわけじゃない。いろんな予兆的な部分もあるから、そういうふうにとらえれば意味がある。
例えば、修行を始めると、わたしもそうだったけど、初期のころから、人によってはね、いろんな体験をする。光が見えたり、音が聞こえたり、体が振動したりいろいろする。それはもちろんそれぞれ意味があるんだけど、もまだ予行演習的なもんなんだね。本当の意味での真実の世界に足を踏み入れるには、物理的にいうと、今いったようにエネルギーが中央気道に入らなきゃいけない。そこにおいて初めて――これはちょっと表現しづらいんだけど、例えばだけども、われわれが寝てるとしてね、寝てるとしてちょっと目が覚めてきたとするよ。目が覚めてきました。まぶたも少し開いてきました。で、夢からちょっと覚めかけています――これがいわゆる普通の神秘体験なんです。何をいいたいかっていうと、寝てますよね。で、完全に起きたっていう状態。これが真実だとしたら、起きかけてるときっていうのは、夢とちょっと混ざったような状態。で、目もあんまりちゃんと開いてない状態。でもなんとなく「ああ、朝なんだな」って思ってる状態があるね。そうじゃなくて完全に目がぱっと開いた。で、夢も完全に終わりました。こうして初めてこの世の経験がスタートする。こういう感じだね。
だからそれまでの経験に意味がないわけじゃないんだけど、完全に中央気道に入ったときにやっと、本当のこの世の裏側にある世界の正しい経験に足を踏み入れたといってもいい。
そういうことはあまり他の修行体系ではいわない。だからチベット仏教っていうのは面白い体系で――チベット仏教というよりインド密教といったほうがいいのかもしれない。もとはこれインド密教だから。インド密教系の教えっていうのは、よく「結果の道」といわれるんだね。結果の道っていうのはどういうことかっていうと、つまり普通はね、この修行をしましょう、そしたら次はこれですよ、次はこれですよ――ってなっていって、結果的にある境地が現われる。だから今の話でいったら、まずはクンダリニーを覚醒させるために、まずは徳を積みましょうと。あるいは、あなた禁欲しましょうと。気を上げるためにこのムドラーちゃんとやりましょうと。あるいは祝福を受けるためにしっかりと帰依を高かめなければいけませんよ。こういう感じでいろいろ進んでいって、最終的に準備が整った段階で、ガーッと中央気道に気が入ります。ああ良かったですね、やっとここから本格的な世界に入りますね、となる。でもインド密教とかの世界では、ゴールを最初に言っちゃうんだね。中央気道に入れましょうねと。ね(笑)。そのために物理的な方法も含めて、いろいろ最もスピーディに行ける方法を駆使しようとする。
何回か同じことを言ってるけど、一つの例えとしては、受験みたいなもんなんだね。つまり東大に入りたいと思った場合、オーソドックスな修行法っていうのは、小学校からのノルマをすべてこなさせる。つまり小学校のノルマを完璧に覚えましょうと。で、中学校も全部完璧に覚えましょうと。で、高校も完璧に覚えましょうと。で、大学に必要なそれ以外のものがあったら、それもすべて完璧にマスターしましょうと。はい、じゃあ受けましょうと。まあ、受かるでしょうと。ね。
じゃなくて、密教の道っていうのは、例えばだけどね――おまえ、小学校あんまり勉強してこなかったのかと。中学校もやってこなかったのかと。「いや、あんまりやってこなかったんです。一からやり直します」と。――いや、一からやり直す必要はないと。東大入るのに、小中高の全教科覚える必要なない。全カリキュラムを覚える必要はないと。まず君はどこの学部に入りたいのか、で、今年の東大の傾向と対策は何か、あるいは君のウィークポイントは何かっていうのを全部調べ上げた上でね、で、まあもう一ついうならば、これは現実としてはずるい話になっちゃうけど、その偉大なる家庭教師というか偉大なる師匠は、今年の東大の問題を知ってる(笑)。実は今年はこれが出ると。よって、お前はこれをやっておけ、と――これが密教の道なんだね。
つまりまず結果を規定する。結果こうなるぞと。そのためには、例えばその時代背景とか、あるいはその人のカルマとか、あるいはその人の長所短所、こういうのを読んで、「じゃあ、君には今これが必要だ。これは必要ない」と――こうやっていく道なんだね。
だから密教というのは、本当は最終的には師と弟子の一対一の修行になります。つまり、こういう本に書かれた最大公約数的なものっていうのは、まああくまでもベースであって、実際には師から弟子に、その人だけのカリキュラムとか、その人だけの指示とかがくるわけだね。例えばミラレパとマルパみたいに、ある弟子はミラレパみたいに、全く修行とかやらされずにひたすら奉仕をさせられるかもしれない。そこでいろいろいじめ抜かれるとかね。人によって違うわけだね。ある人は瞑想ばっかりやらされるかもしれない。その瞑想の種類も人によって違ったりする。しかしそれはちょっとおいといて、最大公約数的な意味でね、スピーディな道として説かれているのがこの密教系の道、この六ヨーガに代表される道なんだね。
◎神秘的な受胎
もう一回話を戻すけども、それでいうと、どんな修行をしようが、われわれがある段階に達すると中央気道にエネルギーが入るんです。それを狙っているんですね、最初から。そこに入るとアーローカ、アーバーサ、ウバラプタって書いてありますが、そのような三つの段階のサマーデイが生じます。で、その後で完全な幻身が成就できますよって書いてある。
ところでここで、幻身って何なんだって話が出てくるね。これはね、実はこの経典でも結構曖昧にされています。曖昧にされてるのは、おそらくそれはよく分かってないというよりも、その辺は書くことじゃないというかな。実際にそれは伝えられることなんだね。でも一応言うと、ここでいう幻身というのは、二つあると思ってください。二つ。
これはわたしの経験も含めていうけども、一つ目のここでいう幻身っていうのは、実際にこの世は幻である、あるいははこの世はすべて一味平等である。苦楽も平等だし、一切の相対的なものは幻であるっていうことを悟ること。これが一つだね。つまりこれは非常に精神的な話です。つまりその人は普通に生きてるわけだけど、生きながら、「あ、この世は本当に幻であった」ということを、教えではなくて本当に悟る。これは一つの幻身のヨーガの目的の一つです。
で、もう一つあります。もう一つが、ここにはっきりとは書かれてないんですけど、本当に幻身と呼ばれる体を作るんです。これは、先ほど言ったチャンダーリーの火のヨーガ、熱のヨーガの延長上にあるんだね。これはクンダリニー・ヨーガとかの勉強会で前に話したことがあるので、今度クンダリニー・ヨーガのたぶん二巻とかに載ると思うけれども、これはヨーガにしろ、あるいは密教にしろ、あるいは仙道の修行にしろ、エネルギーヨーガの高度な段階で、われわれの中にはもう一人の自分が登場します。もう一人の自分ね。
このもう一人の自分というのが、いろんな言い方をされる。例えばここでは幻身という。幻の身体、幻身。あるいは仙道では陽神といいます。あるいは仏教の別の体系では、例えば報身――報いる身体と書いて報身。あるいは変化身っていうのもあるね。その二つを合わせて色身ね、色って書いて色の身体・色身といったりしますが、そういった今の自分とは別の体を自分の中に作るんだね。
これはもちろんテクニック的なものじゃない。あまりその人の心が成熟していないのにテクニック的にがーっと作っちゃうっていうんじゃなくて、その人の精神的な修行、それからエネルギー的な修行の高まりに応じて作られる身体なんだね。
それは――これもどこかで言っているけども、熱のヨーガ、クンダリニー・ヨーガと絡めて説明すると――われわれのクンダリニーっていうのは下からガーッて昇るわけだけど、それは真っ赤な炎のようなエネルギーなんだね。で、それが一番頭に到達すると、今度は頭から甘露と呼ばれる真っ白い非常に気持ちのよいエネルギーが落ちてくる。
下から昇ってくる炎のような赤いエネルギーっていうのは、これは、それぞれが持っている女性原理なんだね。つまり人間っていうのは、自分の中に陰陽のエネルギーを持ってる。つまり男性的エネルギーと女性的エネルギーを、男女両方とも持っているわけだけど、女性的エネルギーの固まりが下から上がってくるんです。逆に男性エネルギー的の固まりが頭からふわーっと降りてくるんです。
で、この熱のヨーガの修行っていうのは、それをひたすら繰り返すんだね。ガーッと上げて、ガーッと下ろしてと、ひたすら繰り返す。
そうすると体中がその歓喜でいっぱいになって、非常に至福感に包まれるわけだけど、それだけじゃなくてさらにそれを進めると、この下から昇った赤いエネルギーと上から降りる白いエネルギーが混ざり合ってくる、だんだん。
これが神秘的な受胎なんだね。
つまり一人の人の体の中で、神秘的な受胎が起こるんです。
受胎が起こるということは、子供が生まれるんです。ね(笑)。
その子供が、この神秘的なボディなんだね。
正しいプロセスでそれをやってると、それは素晴らしい身体になる。それが本当に完成すると、それはある意味不死になります。ある意味不死っていうのは、宇宙が壊れるときには壊れるけども、宇宙がある間はその体は壊れない。その体は壊れないというのはどういうことがというと、肉体が壊れてもその神秘的な体を使って好きな世界にまた生まれ変わって人々を救済することもできるし、あるいは高い世界で多くの人に素晴らしい影響を与えることもできる。
この神秘的な幻身と呼ばれるもう一つのボディを作る――これが密教的な意味での「不死」だね。つまり、この幻身が実際にできたならば、少なくともその幻身という意味においては不死になる。
宇宙が壊れるときには壊れるよ。っていうのは、宇宙が壊れるときにはみんな存在する必要がなくなるわけだから、そういう意味では壊れるけども。でもこの宇宙っていう幻影の世界があるうちは、壊れない身体になるんだね。
はい、これは高度な意味での幻身だね。
◎幻影性をリアルに悟る
そうではなくて基本的な意味では、この世の幻影性のみたいなものを、リアルに悟ります。
これはわたしの経験でいうと、最初は非常に怖いです。つまり、頭でどうこうっていう世界ではなくて、リアルにそれが「あ、本当に幻だった」って最初に気づき始めたときっていうのは、非常に怖いです。
これはみなさん、想像はできるかもしれないね。この世は幻ですよって仏教でもヨーガでもよくいうわけだけど、それを聞いてみなさん、「ああ、そうかもしれませんね」っていっても、本当にそう思っているわけではない。「本当にそうだったんだ!」と気づいたときは、本当に怖くなります。「え!」って(笑)、「ちょっと待って!」と、ちょっとすごいショックがあります。で、まあそれにだんだん慣れてくるんだけどね。
そういう感じで、われわれの中のある精神的な壁というかな、精神的なわれわれの心をガチガチに固めていた観念の壁みたいなのがいろんな方法で崩れてきて、崩れ去ったときに、今言った、ありのままにこの世を見る状態ができてくる。
これが最初怖いんだね。つまりわれわれは、今までありのままに世の中を観てないんです。自分で作った、勝手に作った自作自演の世界の絵を見ているようなもんで――じゃあ、そろそろそれ止めましょうかと。はい、じゃあこの絵を破り捨てますよ。本当のリアルにこの世を観てください――だから慣れないと非常に怖いんだね。だから、ひきこもりの人が外へ出るようなものです(笑)。
われわれは自分で引きこもりだと思ってない、けど、引きこもりなんだね(笑)、全員。つまり観念の引きこもりです。自分の世界、自分の観念、自分で作り上げたものの見方の中に完全に引きこもってる。じゃなくて、それを全部破り捨てましょうと。
修行の段階においては、いきなり破り捨てはしない。つまり、今変な間違った幻影を観てるわけだけど、それをちょっとずつ、いい幻影に変えていくんですね。つまり、観念という意味では変わらないんだけど――例えばここでいろいろ教えてることもそうです。例えば、われわれは観念にガチガチになって、「ああ、わたしはこういうふうにやられて、あの人に仕返ししたい」とかね。まだ修行とかしてない場合ね。「おれはあいつを恨んでやる」とか、あるいは例えば「いかに自分のプライドを満足させるか」と、「それがおれの喜びだ」とか、いろいろガチガチの観念があって、そのフィルターで見てるわけだけど。じゃなくて、「いや、そうじゃないんだよ」と。例えば、「慈悲というのは素晴らしいんだよ」、「あなたが自分のことよりも人のことを大事にしてね、みんなを愛するならばあなたは幸せになるでしょう」と。あるいは、「すべては神の愛ですよ」と。「そのように感謝して生きるなら幸せになるでしょう」と。そういう新たな観念をインプットさせられる。そうすると、それはまだ悟ってないから、それはそれでまだ観念なんだけど、まだいい観念なんだね、ちょっとね。真実に近い観念。真実そのものではないけども、まあ真実に近い観念で、ちょっとこうリハビリをしてるわけだね。
で、ある段階に到達すると、本当にすべての観念が崩される。そうするとわれわれは、いきなりこの世をありのままに見始める。それはとてもショックなんだね。でもそれに怖がらずに慣れていかなきゃいけない。
はい、で、「幻身のヨーガの修行においては、まず、自分の身体が影像のように実体がないものであることを様々な方法で理解していき、さまざまな好き・嫌いの分別を断じ、一味平等にしていく。これが基礎的な幻身の修行である。そして自分の身体をイダムであると観想し、苦と楽を一味平等として悟っていくのが『清浄な幻身』の修行になる」
と。
はい、で、もうちょっと具体的な話が次のところからですね。