「深遠にして広大な法を」
【本文】
不幸に陥った人、よるべのない人、梵行の友に、分け与えたあとに、程よき量を自ら食えよ。三衣以外は、捨離せよ。
【解説】
梵行というのは、煩悩を捨てて解脱を目指す修行のことですね。そのような修行の友、あるいは不幸に陥った人、あるいはよるべのない人などに、まず自分が食べる前に、食事を与えなさい、と。そしてそのあとで初めて自分の食事をしなさい、ということですね。しかしもちろん現代では事情が違うので、これはケースバイケースですね。しかしこのような教えを知っておくのは重要なことです。
そして食事の量も、あくまでも「程よき量」とありますね。現代的な常識である一日三食というのは食べすぎではないかと思います。もともと仏教の出家修行者は一日一食が原則ですが、一食か二食がいいでしょうね。そして本当に体が必要としているだけを食べるだけであって、「おいしそうだから」という理由で食べ過ぎたりしてはいけません。
そして衣服に関しては、「三衣以外は捨離せよ」とありますが、三衣というのは、出家修行者に許された三種の衣のことですね。今でも南方仏教やチベット仏教の僧は、古代インドから伝統の三衣のみを用いるそうですね。
まあこれは現代的に言えば、できるだけ必要最低限の衣服で満足せよということですね。
【本文】
正法に奉仕すべき身を、他のために苦しめるなかれ。かくして、まさに衆生の望みを速やかに満たせよ。
同じ理由で、慈悲の決意がまだ不純の状態にある者のためには、むざむざ生命を捨てるなかれ。しかし、その決意が彼と等しい者のためには、生命を捨てよ。かくすれば、何も失われない。
【解説】
私たちの肉体、人生、時間、これは正法に奉仕することに、100%使われるべきだということです。つまり正法に奉仕するとは、衆生の真の幸福のために奉仕するということと同じです。もちろんそれは具体的には、自己の修行を進めることであったり、実際に衆生に真理を伝えることであったり、いろいろするわけですが、そのために使うべき身体や時間を、煩悩のためとか、あるいは煩悩ではなくても正法とは関係のないことのために使うなということですね。
もちろんこれは、現代的にいうと、社会で働くなというわけではありません。現代の私たちは社会で働かないと生きていけず、自分の修行も他者の救済もできません。だからすべては正法への奉仕と考えて仕事に励むなら、仕事そのものを修行にすることができるでしょう。
まあしかしこういうことは、まだ「自分は菩薩の道を歩こう」と決意した人以外には、関係のないことです。普通はもちろん、好きなように、自分が良いと思うように生きていいと思います。たとえば自分に何か一般的な夢があるなら、その夢をかなえるために努力するのもいいでしょう。そしてその中で好きなだけ、できるだけ、教えの実践をしていけばいいでしょう。しかしもし菩薩の道を歩こうと真剣に決意したなら、あらゆる時間を正法への奉仕に関することのみに使えということですね。
そしてさらに次の部分は、考えさせられる部分です。これはつまり「他人のために命を捨てるべきか」ということですね。たとえば極端な例を挙げれば、「俺は借金があるので、君に保険金をかけて死んでもらってもいいかい?」と頼まれて、「わかりました。あなたがそれで幸福ならそうしましょう」と言って死んでも、それは誰のためにもならないからやめなさいということですね。
しかしお釈迦様の過去世物語(ジャータカ)などを見ると、過去世のお釈迦様は、たとえ真理と関係ない願いでも、衆生の要望を満たそうとして我が身を捨てたりしている場面が見られます。まあジャータカが本当にお釈迦様の教えかどうかという問題もありますが、そのように、状況に関わらず衆生に奉仕するというのも真理といえるかもしれません。
しかしこの辺は前回の話と通じることで、そのような衆生の要望を満たしたとして、本当に衆生のためになるのかという問題がありますね。
たとえば無智な外道が現われて、お釈迦様に「あなたは私たちにとって邪魔だから死んでください」などと言ったとしたら、お釈迦様は死んだでしょうか? もちろん、死ななかったでしょう。お釈迦様は外道も含めた多くの衆生の無智を破壊し、真理の道へ導きいれるという強い使命のもとに行動した人だったからです。
だから、優しいだけの無智な菩薩では駄目なのです。智慧の目と、確固たる菩薩の意志を持って、自分のなすべきことを吟味しなくてはなりません。
しかし仮に、本当に慈悲に満ちた菩薩のために、自分の命を捨てるチャンスが来たならば、喜んで捨てるべきです。
【本文】
恭敬をあらわさない者、頑健な者、頭に布を巻いている者に、法を説くなかれ。傘、杖、刀を持っている者に、頭部を布で覆っている者にも説くなかれ。
【解説】
ここはまず教えを説く場合の規律のようなものが述べられていますね。
ところで、私たちはまだ、衆生に教えを説くような者ではありません。ということはこの部分は、自分が将来、教えを説く立場になったときの教えとして受け取ると同時に、逆に自分が誰かに教えを受けるときに、どのような態度で臨まなければいけないかという観点で読むべきでしょうね。
まず、恭敬をあらわさない者に法を説くな、とあります。これは、「私に恭敬をあらわさないとは、なんてやつだ」という傲慢な意味ではなくて、もちろん、教えに対する恭敬が、教えを受ける者には必要だということでしょう。教えを敬わず、軽視する者に対して気軽に深遠な法を与えていたら、法の価値が理解されなくなります。
しかしこの部分もケースバイケースでしょうね。たとえばミラレーパの一番弟子のガンポパは、ミラレーパに初めて会いに行った時、自分が偉大な弟子だという傲慢さがあったために、ミラレーパはあえて数日間、ガンポパに会わず、ガンポパのプライドをつぶし、ガンポパが謙虚になってから受け入れたという逸話があります。このような話は過去の聖者の逸話にはいろいろありますね。しかし逆に、あらゆるタイプの人に積極的に教えを与えまくった聖者もいます。だからそれは、自分の使命と、社会の状況と、相手のカルマを見切った上で、ケースバイケースで教えは説かれるべきでしょう。しかし基本的概念として、「恭敬をあらわさない者に教えを説くなかれ」という教えは知っておくべきですね。これは自分が教えを説く側のときも、教えを受ける側のときも、覚えておくべきことです。
頑健な者というものはどういう意味でしょうか? 普通、頑健というと肉体的に頑丈な者をイメージしますが、ここでは傲慢な者という意味でしょうかね。この意味はよくわからないので、保留しておきます。
そのあとも、あくまでもこの当事のインドの時代背景にあわせた教えなので、ストレートに受け取ることはできないでしょう。今の日本で頭に布を巻いている者や、刀を持っている者はいませんからね。
だから現代的にいいますと、まず教えを受けるときは、帽子は取るべきでしょうね。そして、武器となりうるようなものを手に持たないことです。もちろん、傘を持っていたからといって、それを武器にしようと思っている人は少ないでしょうが、これは礼儀の問題でしょうね。
【本文】
深遠にして広大な法を、劣小な者に、男子を伴わない女人に説くなかれ。小乗と大乗の法とに、等しく恭敬をなせよ。
【解説】
教えには段階があります。小乗の教えしか理解できない人に大乗の教えを説いた場合、理解できないだけではなく、大乗をけなしたり、修行自体に疑念を抱いてしまう場合もあります。顕教しか理解できない者に密教を説く場合も同様です。ですから、まあ、そういう大きなカテゴリー分けの話だけではなくて、あらゆる意味で、まだ準備ができていないものには、より深遠な教えは説くべきではないということです。
そして女性にも深遠で広大な法を説くなというのは、完全に男尊女卑ですね(笑)。しかしもともと原始仏教や大乗仏教においては、というよりも本来インドにおいては、完全に男尊女卑です。女性は男性に比べ無智で徳が少ないとされます。
しかし密教においては、女性はダーキニーの性質を持つと見られ、「女性を劣ったものだと見てはならない」という戒律さえあります。また男とか女というのもその時代の条件に応じて意味が変わってきますから、現代の女性が、必ずしも劣っているかどうかはわかりません。実際、私のヨーガ教室でも、真剣に教えを求めて修行に励む優秀な女性修行者が多くいます。だから私は、現代では、「男子を伴わない女人に説くなかれ」という部分は除外されるべきではないかと思いますね。
しかし、男性が女性を、女性というだけで「劣っている」と批判するべきではないですが、女性の側は、お釈迦様やナーガールジュナやシャーンティデーヴァが女性をそのように表現していたのは事実なので、自分の中に悪い意味での女性的な部分(依存心、無智、執着、嫉妬、etc.)がないかと観察し、あるなら捨断していこうとする謙虚さも必要でしょうね。
結局、自分はまだまだだと思い(慙愧)、それを乗り越えようと努力する(不放逸)者こそが利益を得るのです。だから経典に「女性は劣っている」と書かれていたら、それを逆利用して、女性の方は、男性以上に謙虚になり、努力し、より速やかに解脱しよう、くらいの気持ちを持ったほうがいいかもしれませんね。
「小乗と大乗の法とに、等しく恭敬をなせよ。」というのはどういうことでしょうか。
この辺は複雑なのですが、実は「小乗」という表現には、いくつかの違う意味があります。
一つは、大乗の土台という意味での小乗です。この場合は、衆生救済の実践の土台として、まず自分の解脱のために様々な汚れを放棄していく道を指します。
二つ目の小乗という意味は、大乗に対立するものとして説かれる場合があります。つまり衆生のために修行する大乗に対して、自分の解脱を最終地点とする利己的な修行を小乗(劣った乗り物)と表現する場合があるのです。
そしてこの一文においては当然、前者の意味での「小乗」と採るべきでしょう。つまり大乗の土台としての、現世放棄の法と、それを土台として展開される慈悲と空の大乗の法の、両方に恭敬をなしなさいということです。なぜなら、本当の意味で現世放棄が達成されていないと、真に慈悲や空に至ることはできないからです。
ちなみに、大乗仏教が言う「小乗」=「原始仏教」ではないと私は考えています。原始仏教には後に展開する仏教のすべてのエッセンスが含まれていると、私は考えています。しかし原始仏典をよりどころとする後世の部派仏教の人たちの中に、利己的な修行に偏った僧が多くいたために、大乗仏教は彼らを「小乗」と非難したのではないかと思います。
【本文】
広大なる法の器を、劣った法に用いてはならない。また行ないを全く捨てて、経典とマントラだけで人を誘惑してはならない。
【解説】
さあ、ここも一見わかりにくい部分ですので、私見を述べさせていただきます。
「広大なる法の器」というのは、まず、自分自身のことではないかと思います。つまりこれを読んでいる皆さんの中で、本当に菩薩の道を歩こうと決意し、実践しようとしているならば、それだけでも菩薩行と縁があるすばらしいカルマの持ち主です。
そのような魂は、まさに菩薩の道を歩くべきなのですが、そうではない劣った法、たとえば衆生の幸福に目を向けず自分の解脱のみを目指す独覚・多聞の法などに、自分の人生を使うべきではない、ということではないかと解釈しました。
そしてもう一つ。さらに言えば、もともと菩薩の素養を持ち、菩薩の道を歩くべき素養を持った魂を、小乗の限定された教えに導き入れるべきではないという意味も含んでいるのではないかと思いますね。
ということは、前項からの教えをまとめると、衆生の機根を見極め、説くべき教えを説けということでしょうか。菩薩行が理解できない衆生には菩薩行の深遠な部分を説くべきではない。しかし菩薩行の素養がある衆生には、小乗の限定された教え(自己の解脱を最終とする教えなど)を説くべきではなく、菩薩行に導きいれろ、ということですね。
そして自分自身についていうならば、そもそもこの文章を読んでいるような方はおそらく菩薩の素養があるのでしょうから、小乗の劣った法に自分を限定させることなく、堂々と勇気を出して菩薩の道を歩め、ということですね。
そして後半については、大乗仏教的、あるいはカルマ・ヨーガ的な見解ではないかと解釈しました。すなわちこの現世においての菩薩行を説くことなく、経典を読んだり、経典の名前を唱えたり、ある種のマントラを唱えるだけで救われるといった誘惑を、人々にしてはならない、ということなのではないかと思います。
まあ実際、大乗経典の中には、そういう記述もあることはあるわけです。「この経典の名を唱えるだけで云々」とか、「この言葉を唱えるだけで云々」とか、仰々しい表現がいろいろあります。しかしその部分だけを取り出して偏った理解をするべきではないということですね。この「入菩提行論」全体を通して繰り返し説かえるように、菩薩行とは、この現世の苦界の中でのた打ち回りながら、実際の慈悲の思いと行為を通して、空の悟りと菩提心を深めていく修行なのです。