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「死のテクニック」

◎死のテクニック

【本文】
 『ヴェーダを学んだ賢者たちが「不死の世界」と呼び、俗世への執着心を捨てた聖者たちの入るべきところ、
 そこに到達するためには神聖なる修行が必要だが、今そのことについて簡単に説明しよう。

 感覚器官の五門を閉ざして肉体的感覚を捨断し、心を心臓の中心に鎮め、
 プラーナを頭頂に集中して、精神統一を図る。

 そして至高者をあらわす聖なる一つの音「オーム」を唱え、
 至高者たるわたしを思いながら肉体を離れる者は、必ず至高の目的地へと到達する。』

 これも一つのテクニックですね。これがだから死のときにできるためには日々こういう修行をしてなきゃいけない。
 まず「感覚器官の五門を閉ざして肉体的感覚を捨断し、心を心臓の中心に鎮め、プラーナを頭頂に集中して、精神統一を図る。」と。
 つまり感覚器官の五門っていうのは、視覚、聴覚・嗅覚・味覚・触覚だね。これに対してわれわれは普段から心が散らばってるわけですけども、日々普段からこれらに心が散らばらない訓練をする。少なくとも瞑想の間は徹底的にそういった外的なものから心を内側に向ける訓練をする。
 あるいは日々の生活の中でも――もちろんわれわれはその感覚の中で生きてるわけだけど、できるだけそれにとらわれない訓練をする。
 これによって、その感覚器官から徐々に徐々に、ちょっと自由度が増してくるわけですね。

◎心を心臓に、プラーナを頭頂に

 そして「心を心臓の中心に鎮め、プラーナを頭頂に」とありますが、これはヨーガでも仏教でも、われわれの魂といったらいいのか、心といったらいいのか、その中心は心臓にあります。
 ヨーガでいう真我って心臓にあるんだね。ただ心臓にあるっていうのはちょっと便宜的表現なんだけど。実際に解剖したら、「あ、ここに真我がありました」ってそういう世界ではない。心臓が一つのアクセスポイントだって考えたらいいね。われわれの心の本性へのアクセスポイント、これは心臓にあります。
 密教とかでは「不滅の滴」とかいうんだけど、われわれの心の本性みたいのの、アクセスポイントがやはり心臓にあるっていうふうにとらえてる。だからここに集中するっていうのは、われわれが最も深い心の本質、真我に到達する一つのポイントなんだね。
 そして「プラーナを頭頂に」っていうのは、これはまさにわれわれの意識がどっから抜けるかって問題になってくる。これは何回も言ってるけども、肉体がある場合ね――肉体がある場合っていうのは、転生する前に肉体焼かれちゃったらまた違うけども、肉体がある場合、意識がどっかの穴から抜ける。それはこの目か耳か鼻か口か性器か肛門かまたはチャクラです。
 チャクラっていろんな意味があるんだけど、魂が抜ける穴でもあるんだね。で、このどっかから抜ける。その抜けた場所によって生まれ変わる世界が変わるといわれている。抜けた場所で変わるというよりも、生まれ変わる世界に応じてそれぞれの通じてる世界から抜けるっていったほうがいいね。
 例えば性欲にずーっと生涯とらわれてきた人っていうのは――ここでもう一つ問題は、意識っていうのはエネルギーといつも一緒なんです。一緒って言い方は変だけど、連動するんだね。ちょうどエネルギーは馬だと。意識は馬に乗ってる人だといわれる。つまりエネルギーがいつも動くんです。意識がそれに引きずられるんです。で、いつもいつも性欲のことばかり考えてた人っていうのは何もしてないときも、性器にエネルギーが集中するような癖がついてるんだね。
 その人が例えば、「いや、私は修行もいっぱいしたんですよ」と言ったとしても、それ以上にものすごい性的な経験があったとしたら、自然に性器にエネルギーが集中するようになってる。生きてるときはね、意志によっていろいろグーッとエネルギー上げたりもできるだろうけども、死後の混沌とした意識のときに、一生の一番の癖っていうか修習が出てくるから、それによって性器にエネルギーが集中した場合、意識も心もワーッて性器に引っ張られるんです。で、性器の穴から抜けるんです。この場合動物界です。「ワンワン」とか「ニャー」とかね。
 全部そうなんだね。例えば地獄は肛門だっていわれています。つまり生きてる間に優しいこともやったけども、でも九割方怒っていたと。この場合は肛門にエネルギーが集中する。で、死んだと同時に一切の束縛から解放されるから、ワーッて肛門から抜けて地獄に落ちる。
 じゃ、どこが一番いいんだって話になるけども、いつも言うように、この頭のてっぺんなんだね。ここに穴があるんです。ここはサハスラーラっていうけども。あるいはブラフマ・ランドラっていわれる穴がある。こっから抜けられれば最高。
 ここから抜けたら解脱の世界に行くか、もしくは浄土に行くかですね。仏陀の浄土に。
 だからここから抜けられればもう最高なんです。だからここにプラーナを集めるんだね。
 チベットの瞑想とかでは生きてる間にここからガーッてエネルギーを抜け出す訓練をしておくんだね。

◎心臓、眉間、頭頂

 ただもちろんね、その人が生きてる間に解脱すればこんなテクニックはいらないんですよ。解脱すればもう自由になるから。自分の好きなようにできるんだけど。
 だからこういう話っていうのは、解脱するまではいってないと。いってないけども、テクニックによってなんとか死のときにね、うまいこといきたいって場合の話でね。でもそれをやるにもさっきから言ってるように、生きてる間に徹底的にそういう訓練をしておかないと非常に難しい。
 だからね、これはヨーガでも仏教でもそうだけど、頭頂とか眉間ね。これに常に意識を集中しなさいってことをいう。あとは心臓だね。だいたいこの三ポイントが多いね。心臓、眉間、頭頂。
 もう普段からなにをしてるときでも――別にだから頭では他のこと考えててもいいんだけど、例えば仕事していていろんなプログラムとか作りながらも、頭のてっぺんに集中するとかね。あるいは心臓に集中するとか。これをやってると普段からそこにエネルギーが向かいやすくなる。これは一つのテクニックだね。
 仏教とかではもうちょっとそれをさらに発展させてね、二十四時間常に頭の上に仏陀をイメージすると。あるいは自分の師匠とかあるいは自分の好きなリアルな聖者とかを頭に乗っかってるとイメージさせるんだね。それはここにエネルギーを集中させるっていうのと同時に、その対象に対するイメージっていうか、これを確定させる。何やってるときでもこれが出てくると。そういう状態にするとかね。
 バルドっていうのはおもしろいもんで、前も言ったけど、良くも悪くも一瞬で大逆転の可能性があるんです。一瞬で大逆転の可能性っていうのは、ウワーッて「地獄のバルド!」って入ったときに、瞬間、仏陀を思い出しただけですべてが仏陀の世界に変わる可能性がある。逆もあるんだけどね。「あー天界だ。私は天に生まれ変わるのかな」って思ってたら、「そういえばあいつ許せないな」って思いがちょっと出ただけで、すべてが地獄に変わる可能性がある。非常に怖いんだね。
 でもこれを良く考えると、できるだけ死後の世界とかで、仏陀とかを一瞬でも思い出せるように、生きてる間に準備しておく。もう二十四時間なにをするときも、仏陀とかクリシュナでもいいけど、考える。
 だからこれはね、普段からそういう訓練ってできるんだね。まあカイラスの人って結構そういうことしてるかもしれないね。何を見ても――まあそれはね、いろんなレベルがある。本当にその人が悟ってたら、リアルにそう見えるんです。クリシュナに愛人のラーダーがね、「もう何を見てもクリシュナに見えてしまう」と。あれはもう一つの悟りだね。
 そこまでいかなくても、もうちょっと低いレベルでもできるんですよ。意識的にね。本当はそう見えないんだけど――例えばお茶を飲みながら、本当に悟ってたら、もうリアルに「あーこれはもう、このお茶さえもクリシュナである」と思えるかもしれない。そこまでは思えないんだけども、「これはクリシュナ様の甘露かな」とか。「甘露と思っていただこう」と、とかね。いろんな形でこう意識的にすべてを仏陀とか神に結びつける訓練をするのは大事だね。
 それをするとなにが起きるかっていうと、例えばCさんが貪りが強くて――これは仮にですよ。来世餓鬼に落ちる運命にあったとするよ。その場合、餓鬼の一番多いパターンっていうのは、自分の好きな食べ物がバルドでバーッて出てきて、「うおー、食いてー!」って行ったら餓鬼の世界だと。
 しかしですよ、Cさんは食いしん坊なんだけど、常に「これを仏陀に捧げます」って食べると。この訓練を日々やってたとするよ。そうするとどうなるかっていうと、バルドでバーッて食い物が出てきて、「うわー、餓鬼だー!。……あ、クリシュナ!」ってなるんだね。つまり食べる前にクリシュナに捧げるって癖ができてたら、「うわー、餓鬼だー!。でも……あ、クリシュナ。」って思ったときに、パーッて救われるかもしれない。それがスーパーテクニック。
 でもこれはね、テクニックっていうとちょっと弊害があるけども、でもこれができるには、さっきから言っているように、根付いてなきゃ駄目なんです。「こうやろう」じゃなくて、自然に出てしまうと。だから例えばいつもやってるようにね、「はい、じゃあ、まず食事の前に神に捧げましょう」と。これも「一応決められてるからやろう」っていうのが最初なんだけど、でもだんだんだんだん自然になっちゃうんだね。例えば「捧げてからいただこう」じゃなくて、もうなにかを口にした瞬間パッと、例えば仏陀や神の顔が浮かんできて、それを捧げてるイメージが出ると。ここまできたらもうその人は餓鬼に落ちることはないかもしれない。いかに貪りがあってもね。そっちに結び付けられてしまうというか。
 だからそういうことを普段からやってないとだめだけどね。だから結局は生きてるときの普段の修習がものをいうんだね、どの道をとるとしてもね。

◎死後の乗り物

 そして、「至高者をあらわす聖なる一つの音「オーム」を唱え、至高者たるわたしを思いながら肉体を離れる者は、必ず至高の目的地へと到達する。」と。
 オームっていうのはあらゆるマントラの王というかあらゆるマントラの基本だけども、もちろん別にこれは普段からオームばっかり唱えてればいいって問題でもなくて……まあオームだけ唱えるのもいいけどね。他の観音様のマントラでもヴァジュラサットヴァのマントラでもいいし。
 あのね、私の一つの経験を言うと、私が昔非常に深い意識の瞑想に入ったときに、まだそれに慣れてなくて、そういう深い意識に――前も言ったけどね、本当に深い意識に入るときって、ガクンッて感じで入るんです。なんとなく「あー深くなってきたな」っていうよりは、不連続点があるね。ガクッて違う世界に入っちゃうんです。で、それが慣れないとね、もうわけわかんなくなるんだね。本当にだからバルドに入ったような感じ。ワーッてなるんだけど、前にワーッてなったときに、ヴァジュラサットヴァのマントラが浮かんできて、「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ マヌパーラヤ……」ってなったら、意識が鮮明になったんです。「おー! すごい!」「このマントラすごい!」と思って。
 それは多分ね、ヴァジュラサットヴァのマントラがすごいっていうのもあるし、自分に縁があったのかもしれない。例えば過去世でいっぱい唱えてたとか。
 だからオームのマントラって一番基本のマントラなんだけど、もちろんオームだけでもいいし、あるいは他のマントラと縁があった場合ね、そういったマントラが――例えばね、密教とかではマントラは「死後の乗り物」になるっていうんだね。そういうふうにいわれてる。つまりマントラを日々唱えることによって、それが死後の世界のわれわれの意識を――さっきも言ったように変なバルドがあったとしても、マントラとか詞章が死後の世界でもし出てきたならば、それがわれわれを良い方向にバーッて連れて行ってくれる。
 ちょっと私のリアルな体験をいうと、そのときウワーッてバルドみたいな状態になっちゃって、「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ」ってワーッて出てきて、だんだんだんだん、ワーッて自分がなんなのかわかんない状態から、死後の世界っていうか瞑想の世界における自分の体っていうか、それが確定された。ちょっとよくわかんないかもしれないけど。「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ」ってなった瞬間に、自分の今まで修行してきた情報とか、あるいは教えとかが、ガッて蘇ってきて、自分の修行者としての自分がバッてこう、確立された。言ってる意味わかるかな?
 つまりその状態っていうのは、深い瞑想とかバルドっていうのは、今まで自分がやってきたいろんな思いとか情報がこんがらがって、グジャグジャで、「おれは何なんだ」と。ウワーッて感じなんです。で、生まれ変わるときっていうのはここから何かに固定されるんです。何かに固定されて生まれ変わる。それがヴァジュラサットヴァ唱えたら、修行者としての自分に固定されたんです。それによって世界がバッて変わったんです。至福の世界というかね。
 もしそれがバルドだったら非常に良かったね。いい世界に行ってたかもしれない。だからそういうマントラには効果がある。
 だからさっきのその餓鬼に落ちるときに、クリシュナを思い出したらっていう話と同じで、マントラっていうのも癖になるじゃないですか。マントラずーっと唱えてると。だからそれくらいじゃなきゃ駄目なんです、逆にいうと。本当にすべてのことが吹っ飛ぶような深い意識に入ったとしても、そのマントラが出てくると。それぐらいになって初めて、マントラがわれわれの死後の世界の乗り物になるんだね。

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