「慙愧の念」
◎慙愧の念
はい、そして、「慙愧の念に従ってください。」
慙愧の念っていうのは、自分そして他者に対して恥じることだね。恥じるっていうのは、いい意味でですよ。いい意味で恥じる。
つまり、自分の中で、「いや、おれはこんなんでいいんだろうか?」と。「こんなんでいいわけがない」と。「わたしは修行者なんだから、こんな心を持っていいわけがないんだ」――これが自分に恥じるってことだね。
で、他者に恥じるっていうのは、「わたしはこんな生き方じゃ恥ずかしい」と。これはもちろん悪い意味でのプライドじゃなくて、いい意味でのプライドですね。
修行者っていうのは、いい意味でのプライドを持たなきゃいけません。つまり、「おれは修行者なのだから」――これはまあ『入菩提行論』的にいうと、わたしはもう仏陀の家系――つまり仏陀に帰依したことによって、仏陀の一族となったのだから、その一族に汚点が付くようなことはできないぞって考えるんだね。わたしはもう仏陀に帰依し――まあクリシュナでもいいけど――聖なる者の一員になったんだから、決して、みんながそれを見てね――例えば、「僕は仏陀に帰依してます」とかいって、なんか変なことばっかりやってたら、周りの人は「ああ、なんだあの人は」と(笑)。「仏教ってそんなもんか」と(笑)。「ヨーガってそんなもんか」と思ってしまう。
だから、そうじゃないと。わたしは仏陀に帰依してるのだから、こんな――少々無理があってもいい。無理があってもいいから、恥ずかしいことはできない。――こういう気持ち。これが外に対する、周りに対する「恥を知る」っていうことですね。
だから自分に対して、そして周りに対して恥を知る。この気持ちを持たなきゃいけない。
もちろん、エゴによって恥ずかしいってのは駄目ですよ。「ああ、おれはこう思われたくないないんだ」とか、そういうエゴによって思うのは駄目だけど、まあ何度も言うように、仏陀の一族の一員なんだっていう、いい意味での誇りを持って、ある意味恥じないように生きる。そして自分の中で、自分と自問自答して、自分自身にも恥ずかしくない生き方をすると。これが慙愧の念を日々持つっていうことだね。
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