yoga school kailas

「念と正智を全力で守れ」

【本文】

 心の落ち着かない人々の間におれば、(用心深い負傷者は)注意して傷を守る。
 それと同様に、悪人たちの間にあっては、常に心の傷を守るべきである。

 
【解説】

 我々が体のどこかに怪我をしていたとして、周りに、たとえばチンピラとか、怒りっぽくて暴力的な人たちがいたとします。その場合、いつ彼らが気分を害して我々に襲いかかり、この傷が悪化してしまわないかと、注意して傷を防御するでしょう。

 同様に、我々は心に傷を抱えています。ここでいう心の傷とは、トラウマとかそういうことではありません。煩悩に汚された悪しき心の部分です。どんな善人でも、修行者でも、完全に解脱していない限り、何らかの心の汚れ、煩悩を持っています。それを心の傷と表現しているのです。もちろん、それを治療するために修行しているわけですが--悪人たちの中にいると、肉体の傷を害される危険性があるのと同様に、この心の傷を害される危険性もあるというわけです。
 それはどういうことでしょうか? ここでいう悪人とは、煩悩多き衆生のことですね。煩悩多き人々と一緒にいると、当然、自分も心に潜んでいた怒りや執着や慢心などの傷がくすぐられ、悪化し、いつの間にかそういった煩悩で心がいっぱいになったりしてしまいます。だからそうならないように、注意しておけと。自分の心の中に潜んでいる汚れが増大しないように注意しながら、煩悩多き衆生と接しなさいということですね。

【本文】

 傷によるわずかの苦痛を恐れて、私は傷を注意して守る。
 衆合地獄の山の重圧を恐れて、何故心の傷を守らないか。

 悪人たちに対しても、美人たちの中でも、かような態度で振舞いつつ、堅固な修行者は、躓かない。

【解説】
 
 我々が肉体の傷を害されるのを恐れるとき、仮に傷が害されて傷口が悪化したとしても、その痛みや苦しみはわずかなものです。しかし心の汚れという傷を害されてその汚れが悪化したなら、我々は地獄に落ち、ものすごい苦しみを味わわなければならなくなるかもしれません。だから肉体の傷を守るときよりもより細心の注意を払って、善き心を守らなければならないのです。

 先ほど、悪人の中にいると、自分も悪心が出てくるかもしれないから気をつけなければいけないというようなことを書きましたが、悪人ではなく善き人のそばにいるときも同様です。たとえば他人の美徳を見て、嫉妬という悪い感情が出てきてしまうかもしれません。ですから結局、どんなときでも、自分の心の汚れが噴出さないように、細心の注意を払い続ける必要があるというわけですね。

 

【本文】

 私の所有物は、欲するままに滅ぶも良い。尊敬も、身も、命も、滅ぶなら滅べ。
 ただし「善き心」はいかなるときにも滅びてはならない。

 心を守ろうと願う人々に、私は合掌をささげる。
 「念と正智を、全力を挙げて守れ」と。

 病に悩める人がすべての行為に不適当であるように、この念と正智の両者を欠くときは、心はすべての行為において為すに値しない。

 その人の心に正智がなければ、教えを聞くこと、考えること、瞑想することは、穴の開いた瓶から水が漏れるように、念(スムリティ)としてとどまらない。

 多くの教えを聞き、信仰を持ち、努力に専心しても、正智を欠くという過ちのために、人々は罪に汚されたものとなる。

【解説】

 財産も地位も名誉も、本来あまり価値のあるものではありません。それらは本質ではなく、無常であり、二次的なものに過ぎません。
 しかし心というのはすべてを生み出す土台となるものですから、それが善い状態であるか悪い状態であるかによって、すべてが決まってしまいます。目に見えるすべてのものは、そのつじつま合わせのようなものです。「いかに善い心を保ち続けるか」、それがすべてなのです。

 念と正智というのはいろいろな説明ができますが、ここで語られている念と正智とは、次のように簡単に定義できるでしょう。

念・・・正しい思いを心に植えつけ、保ち続けること
正智・・・心を明瞭に保ち、心が悪しき状態に流れないか、正しい念を保ち続けているかチェックし続けること。

 いかに多くの教えを学び、それについて考え、そして瞑想をしたとしても、日々、正智という監視作用によって自己の心が見守られていなければ、結局、その教えは心に念として根付くことなく、悪しき心の状態へと流されていきます。

【本文】
 
 無正智という盗賊--それは念の壊滅をもくろんでいる者であるが--この盗賊のために、蓄えた功徳すらも奪い去られて、人々は悪趣に赴く。

 この煩悩という盗人の群は、我々への通路を探し求め、ひとたびそれを発見すれば、我々の旅費を奪い、幸福へ向かう生命を断つ。

 ゆえに、念は常に心の門から遠ざけられてはならない。念が離れ去った場合には、悪道の災厄を思い起こして、元に連れ戻されねばならぬ。

【解説】

 このたとえもすばらしいですね。
 我々は旅をしています。
 目的地は、幸福な心の世界、あるいは天の世界、あるいは解脱や悟りの境地です。
 その旅には当然旅費が必要なわけですが、この旅における旅費となるのが、功徳なのです。よって我々は、功徳をしっかりと積んで蓄えつつ、それをあまり無駄に消費しないように気をつけつつ、旅を続けるのです。
 しかしこの旅中には、常に盗賊に襲われる危険性があります。ここでは、「無正智」、すなわち「正智がない状態」が、擬人化されて「無正智という盗賊」と表現されています。
 この無正智、あるいは煩悩という名の盗賊は、いかに我々に忍び寄るかを考えています。それはいろいろな形で我々を惑わす魔の誘惑といってもいいでしょう。
 それは一見、他愛のないきっかけでやってくることが多いのです。それは苦しいことだったり、楽しいことだったりします。そうしていつの間にか我々は煩悩に巻き込まれていきます。
 その結果、我々はいつの間にか、心に汚れが増え、功徳が減った状態になり、とても幸福な世界や解脱の世界への旅など続けられなくなってしまうのです。

 よって、心の門から、念を遠ざけてはならないというのです。
 つまり、正しい教え、聖なる考え方を、常に心の守護者として置くのです。決して忘れずに。
 といっても、なかなか24時間、その聖なる心の状態でいるのは難しいものです。
 ハッと気づくと、我々の心からその正しい念はどこかへ消え去ってしまっています。
 しかし少なくともハッと気づいたときは、念がないことによって落ちる地獄の苦しみを思い起こし、念を元に連れ戻すのです。すぐに。そのような心構え、真剣さが必要です。

 この例として、チベットの愚直者と呼ばれたある僧の話が有名ですね。この話は「虹の階梯」などに載っていて、私の日記でも紹介したことがありますが、この入菩提行論の解説のため、もう一度簡単に紹介しましょう。

エピソード1.
 あるときこの僧は、信者の家を訪ねました。しかし信者は留守でした。僧は信者からいつもお茶の葉を布施されていたので、勝手に失敬してもいいだろうと思い、お茶の葉の入った袋に手を突っ込みました。その瞬間、彼の心に「念と正智」がよみがえり、ハッとしました。彼は自分がとんでもないことをしようとしていることに気がついたのです。そこで彼は、「大変だ!泥棒だ!」と叫びました(笑)。声を聴いて駆けつけた信者たちに、僧は自分のことを指差して言いました。
「ここに泥棒がいます。この腕を切り落としてやってください。」

エピソード2.
 あるとき僧は、僧院で配られるヨーグルトの配給の順番を待っていました。並びながら僧は心の中で、「自分の番が来るころには、ヨーグルトのおいしい部分はなくなっているかもな」と思いました。するとそのとき、僧はまたハッと気づきました。 
 僧の番が周ってきたのですが、僧はお椀を逆さにして、ヨーグルトを受け取りませんでした。そしてこう言いました。
「わしはもう結構。わしのいやしい心が、もうヨーグルトを食っちまったもんだからな。」

エピソード3.
 あるとき僧の家に、信者が訪ねてくることになっていました。僧は朝から祭壇や部屋を掃除し、一息ついてお茶を飲みながら、今朝の一連の行為と心の働きを振り返っていました。するとまた僧はハッと気づきました。自分の今朝の行為の裏には、できるだけ祭壇や部屋をきれいにして、信者から多くの布施を受け取ろうという心が潜んでいたことに気づいたのです。僧は立ち上がると、ゴミを手にして祭壇や部屋中にぶちまけました。そして座って、「くわばらくわばら、気をつけていなくては。」と、胸をなでおろしました。
 その後、信者が来ると、部屋や祭壇がめちゃくちゃになっているので、僧に聞きました。「どうしたんですか? 泥棒でも入ったんですか?」
 すると僧は答えました。
「そうなんだ。心に泥棒が入ったんだよ。」  

 この話を伝え聴いたある聖者は、この僧を称賛して言いました。
「チベット広しといえども、この僧ほど偉大な修行者はいまい。この僧は、自分を悪趣に引き摺り下ろそうと手ぐすね引いている悪魔の頭上に、ゴミをぶちまけたのだから。」

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