「忍辱の完成」
第六章 忍辱の完成
【解説】
第六章は忍辱(クシャーンティ)の章です。
忍辱とは、大乗仏教の六つのパーラミターの修行の第三番目に来る修行ですが、簡単にいえば、苦しみに耐え、決して怒らない修行です。
この修行の意味は、いろいろとあると思います。
①自分の中の嫌悪のカルマを滅する。
②「日々の苦しみ=過去の悪業の現象化」に耐えることにより、カルマを浄化する。
③修行によって生じる浄化作用としての苦しみに耐えることにより、カルマを速やかに浄化する。
④菩薩の修行によって生じる苦しみに耐えることにより、菩薩としての器を広げる。
⑤修行によって明らかにされる真理・真実のショックに耐え、智慧を深める。
そしてこの修行によって得る結果としては、これらのものがあります。
①強い心を得る。
②怒りを超えて寂静の心、安らかな心を得る。
③怒りを超えて慈愛の心を得る。
④過去の悪業を浄化する。
⑤特に怒りのカルマが浄化されるので、周りから嫌われたり、攻撃されることが少なくなる。
⑥怒りのない心の波動により、周りを安らがせる。
⑦今生も容姿が美しくなり、来世も美しく生まれる。
⑧菩薩としての器が広がる。
⑨智慧が深まる。
以上のように、この忍辱の修行は非常に重要な修行であり、大きな利益をもたらす修行ということになります。
この忍辱のパートにおいても、シャーンティデーヴァは、非常に美しくかつ深い意味を持った詩をたくさんつづっています。さあ、順次見ていきましょう。
【本文】
数千カルパの間に積み重ねられた、善行、布施、スガタ(仏陀)への供養--そのすべてを、怒りは(一撃の下に)打ち壊す。
怒りに等しい罪悪はなく、忍辱に等しい苦行はない。それゆえ、いろいろな方法で、努めて忍辱を修習すべきである。
【解説】
カルパというのはものすごく長い時間の単位です。カルパの計算方法には様々な説がありますが、この宇宙の寿命を一カルパと言ったりしますので、数千カルパというのは、この宇宙が創造され、維持され、破壊されるのを数千回繰り返したほど長い間という、まあつまりとてつもない長い期間という表現ですね。
この宇宙が数千回できては壊されるのを繰り返すうちに積み続けた膨大な功徳も、一瞬の怒りが、すべて打ち壊すことができる、というのです。
これは二つの意味において、真実だと思います。
第一は、怒りの心が自分の心に与える悪影響が、実際に非常に大きいということです。
第二に、怒りが湧き起こることによって、どんな悪業を積んでしまうかわからないということです。一瞬の怒りによって、取り返しもつかない過ちを犯すこともあります。たとえばお釈迦様の二大弟子の一人であったモッガッラーナは、二つ前の生において、天界の王(マーラ)でしたが、カッサパ如来への敵意により、カッサパ如来の高弟を殺してしまいました。その悪業により彼は天から落ち、地獄に落ちたと言います。お釈迦様の高弟でありながらお釈迦様を憎み何度も地獄に落ちたデーヴァダッタなど、それまでの徳や修行の高さに関わらず、一瞬の怒りがすべてを台無しにする悪業を犯してしまう例は、多々あるのです。
そして世界の構造を見ても、最も苦しく最も低い世界は地獄界ですが、この地獄の世界に落ちる根本的な因も、怒りなのです。
よって「怒りに等しい罪悪はなく」というわけですね。
そして「忍辱に等しい苦行はない」とあります。
たとえば蓮華座を組み続けるとか、何日も断食し続けるとか、何日も寝ないとか、いろいろな苦行がありますが、どんな苦行より、忍辱が最高の苦行だというのです。
それはどういうことでしょうか?
というのは、忍辱というのは結局、自分のカルマによって生じる苦しみに耐えるわけですが、自分のカルマによって生じる苦しみというのは、普通は耐え難いのです。
たとえば誰かに罵倒されたとします。これは罵倒されるカルマがあるからです。しかし罵倒されるカルマがある人は、罵倒するカルマもあるのです。よってこの人は、言い返して罵倒したくなったり、あるいは誰か別の人を罵倒したくなってしまいます。あるいはそこまでいかなくても、心の中にすごい怒りがわきます。しかしここでぐっと耐えることにより、やっと罵倒のカルマが浄化されていきます。これによってこの人は徐々に、罵倒のカルマの輪の中から解放されていきます。
しかしこれは普通は非常に苦しく、難しいのです。そのカルマがない人から見たら、何でもないことであっても、そのカルマの中にいる人には、そこで耐えるということが非常に難しかったりします。しかし耐えなければなりません。
そしてそこで耐えることによって、普通は抜けられることのない、カルマの輪から脱出できるわけですから、そういう意味で、修行の大変さという意味でも、結果のすばらしさという意味でも、「忍辱に等しい苦行はない」のです。
【本文】
心臓に怒りの鏃のある間は、心は静安とならず、喜楽を味わわず、安眠を得ず、堅固とならない。
召使たちを主人が顧みて、利益を与えることで待遇していても、その主人が憎しみにとりつかれていたならば、召使も主人を嫌い、彼を殺そうとさえ願う。
彼の親友すら、彼を嫌悪する。彼は物を施しても、報酬を受けない。要するに、憎悪を発する者に、安住を得る手段は全くない。
かように、怒りは様々な苦しみをもたらす敵であると知って、それを強く殺すその人は、この世とあの世で安楽を得る。
【解説】
怒りという矢が心に刺さっているうちは、当然、心は静まらず、喜びや楽を味わうこともなく、安眠もできず、堅固で安定した心を得ることもできません。
本人が幸せでないだけではなく、周りの者も、嫌悪の強い人を嫌います。このように、嫌悪の強い人、憎しみに心を覆われた人は、本人の心も苦しく不安定で、周りからも嫌われ、何も良いことはないのです。
よって、怒りをもつことは何のメリットもないということを知らなければなりません。実は我々の潜在意識は、その辺を錯覚している場合が多いのです。こういう場面で怒るのは正当であり、自分に利益がある、と勘違いしている場合があります。そうではなくて、どんな状況であっても、怒りや憎しみは何のメリットもなく、苦しみをもたらすだけだと知り、自己の怒りの心の殲滅に努力しなければなりません。そのようにするならばその人は、この世においても来世においても、自己の心は安楽となり、周りからも安楽を受けるでしょう。
そしてさらに言うなら、そのようにして怒りの心を滅していった人は、穏やかな安らぎのヴァイブレーションを発するようになり、周りの人も安らかにしていくでしょう。
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