yoga school kailas

「心の本性と、瞑想の修習」③

 低い智性の人のための修行の方法は、
 まず第一に、寂止と正観を別々に訓練することです。
 そうしてそれぞれが堅固な経験となったあと、
 寂止と正観は統一されるでしょう。
 これは、無数のテクニックによって学ぶことができるでしょう。

 まず寂止の探求の手段は、
 隔離された場所に座り、
 そして、断続的に数日間、そこにとどまり、概念の流れを制御するのです。
 このとき、アーナーパーナ・サティなどのテクニックも利用します。

 その後、彼は、神やブッダの絵や像などのような
 適した善い対象に、
 静寂な心で、乱されずに意識を集中することを得ることでしょう。

 そして、四無量心や、生起と完成のプロセスのような瞑想を修行するのです。

 このようにして寂静に到達したら、心は柔軟になるでしょう。
 どこか他のところで道に迷うことはなく、集中の対象にしっかりと結び付けられ、
 そして結び付けられている間、心は寂静にとどまるでしょう。

 身口意が純粋な歓喜で満たされたとき、
 集中があり、正道を踏み外さない寂止は確定されるでしょう。

 その後、彼は、正観を学ばなくてはなりません。

 ――多種多様の顕現の中の
 リアリティの顕現と虚像、
 輪廻とニルヴァーナ、
 それらの表象の世界の事物は、真実には、
 夢、幻影、ただのイメージ、雲、蜃気楼、揺らめく炎のようなものです。

 何もないものとまだそこにあるもの、それらは存在の空性にとどまるのです。

 すべてのものは空のようであって、本質はないので
 それをこの始まりのない状態にあるがままに解き放ち、
 それについてのすべての事柄を捨て続けてください。

 それによって、表象の世界は本質がないということ、
 そしてとらえられる客体も、とらえている主体も、そのように存在しないということの理解が訪れるでしょう。

 その後、彼は、次のように心の内側を吟味しなければなりません。

 ――心はさまざまな観念を持っているが、真実ではない。
 
 心は、否定と肯定、真実と虚像、幸福と不幸といった対象へと向かうのですが、
 それらは真実ではなく、つかみどころがないのです。

 あなたはどこからきたのですか?
 あなたは今どこにいるのですか?
 あなたはどこに向かっているのですか? 
 あなたの形、色はどこにあるのですか?

 そのように吟味するならば、心の正体が見られるでしょう。

 
 心には、その始まりも、維持も、その停止も、
 それらを招いた因も、何もまったくないのです。
 
 それは、色も形もなく、何かとしてつかみどころがありません。
 
 過去――それは、終わったものです。
 未来――それは、まだ現われていないものです。
 現在――それは、過ぎゆくものです。
 それらは、内側にもなく、外側にもなく、どこにもありません。

 それは空のようであり、そしてどんな事柄にも影響を受けないものだということを知ってください。

 次にあなたは、心についての熟考をやめ、
 心を緩和し、弛緩させてください。
 何も考えることなく、思考を捨ててください。

 すべてが非二元性にとどまっている領域に、心をありのままに解き放ってください。

 
 それによって、
 エゴは本質ではなく、
 また、エゴは本質ではないと理解している心も、本質的には存在していないことが理解されるでしょう。

 その後、本物の純粋意識がやってきて、
 寂止と正観は一つとなり、
 水と水に映っている月のような、顕現と心の合一が生じるでしょう。

 真実には何一つ存在していない二元性にとらわれることによって、あなたは、架空の存在で迷子になるのです。

 二元性は存在していないと知ることによって、あなたはニルヴァーナという平穏へと至るのです。

 それゆえに、この方法に従って、非二元性を理解することに努めてください。

 ――あるものすべては、一度として生起したことがないものであり、心の純粋な真相の一つです。

 心の本性は、純粋で、汚れのないものなのです。

 汚れのない、解放された、光り輝く、あらゆる事柄から切り離された状態に、それをありのままに解き放ってください。

 それによって、混乱し荒れ狂っていた感情は、とても穏やかになり、
 そして、概念的分別のない絶対的な純粋意識は、姿をあらわすのです。

 純粋な意識、神秘的な知覚、サマーディ経験は確かになり、
 そして、主体もなく客体なく、制限されるものを得ることもないという確実性な理解が生じるでしょう。

 そのように、心が空のようである間は、
 対象を仮定することもなく、何かの事柄に楽しめられることもないでしょう。

 法界の状態は、修められることもなく、何かを修めるものもなく、
 創られることもなく、何かを創ることもないのです。
 ――この根源的な領域は、汚れがなく、本質的に純粋なブッダフッドの状態です。

 とらえられる対象は、見つからないでしょう。
 正確に言うと、そこにあるものは、水または蜃気楼の中に映る月の反射のようなものです。

 ――とらえている主体は見つからないでしょう。
 正確に言うと、そこにあるものは、安定、そして揺らがないことです。

 二元性を超えていて、その見掛けの対象が存在しないこの領域は、
 深遠で、静寂で、あらゆる事柄の影響を受けず、光り輝き、自然なのです。

 ――この法界という神の美酒を飲んでください。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする