「完全な世界」
◎完全な世界
【本文】
『だがこの未顕現の世界を超えたところに、姿形なき別の世界が実在する。
それは永遠不変であって、この世が絶滅してもそのままである。
その非顕現の不滅の世界こそ、究極のすばらしい至福の世界であり、わたしの住処であり、
そこに到達した人は再びこの世に戻ることはない。』
ここで「未顕現の世界」っていってるのは、さっきも言った光音天とかの世界だね。つまり現実世界にあらわれてこない、裏側にある高い世界があるわけですが、われわれはこの世界に一旦帰り、また戻ってきてって繰り返してるわけですが、でもこの光音天、つまり色界ね、色界さえも超えた、無色界も超えた、完全な世界がありますよと。それはニルヴァーナといってもいんだけど、完全なニルヴァーナだね。ニルヴァーナにも段階がある。その完全なニルヴァーナの境地に入ったならば、もう決して戻ってきませんよという話ですね。
◎真我への絶対帰依
【本文】
『万物が内在し、全宇宙に充満する真我には、
それに絶対帰依する心の持ち主のみが到達できるのだ。
ヨーギーがこの世を去った後、再生してくる場合と、再生しない場合について、
わたしはそれぞれ君に説明しよう。バーラタ族で最も優れた人よ!
日と炎と昼が支配し、月の明るい二週間と太陽が北緯にある六ヶ月の間に、ブラフマンを知る人がこの世を去った場合、
その人はブラフマンの世界へと必ず到達し、再びこの世に戻ってくることはない。
しかし煙と夜が支配し、月の暗い二週間と太陽が南緯にある六ヶ月の間に、ヨーギーがこの世を去った場合、
その修行者は月光の輝く世界に到達し、再びこの地上へと戻ってくる。』
「万物が内在し、全宇宙に充満する真我には、それに絶対帰依する心の持ち主のみが到達できるのだ。」と。
これはいろんな受け取り方があると思うけども、私はこういう文を見ると、マハームドラーとかゾクチェンの世界を思い出すね。つまりわれわれが生きていて、何を重要に考えて、何を自分の心のよりどころとするかって問題があって、で、「いや、やっぱりおれはお金がないと心配なんだ」と。「やっぱりお金だ。お金だ。」って考えてる人は、それはもう、口でいかに仏陀とか言っていようが、その人の心っていうのはお金に結び付けられているわけで。あるいは「いや、私の心は寂しいんだ」と。「寂しいんですよ。寂しいんですよ。」って言ってる人は、その愛情欲求みたいなのが心を占めてるわけで。
じゃなくて、常にどんな状態であろうとも――ここでは真我っていってるわけですが、心の本質、これから心をはずさないと。あるいは別パターンとしては神ね。神や仏陀っていうリアルな対象から心をはずさないと。こうして生きる必要があるんだってことだね。
これはだからさっきからいってることのまとめみたいなものだけども、結局、言い訳とかごまかしは通じない。その人がどれだけ何に心を向けて生きてたかによって、その人が死後引っ張り込まれる世界が違ってしまうってことだね。
◎因を浄化することの重要性
そして、「日と炎と昼が支配し」云々とありますが、これはあんまりここは深く考えなくていいと思います。
つまりこれは占いとかも同じなんだけど、占いっていうのは結局――占いっていうか、占星術ね。占星術の発想っていうのは……まあインド占星術とか西洋占星術もそうだけど、もともとカルマの法則っていう理論があって、で、輪廻転生っていう理論があって、で、前生でやってきた行ないによって、もう今生の運命は決まってますよって考えがある。例えば前生で、これやって、これやって、これやって、これやりましたねと。で、そのカルマを受けるのが今生だから。まあ実際には前生プラス前前生のまだ消化しなかった分とか全部加算されてるわけだけども。前生までのいろんな生き方によって今生のこと決まっちゃってますよと。これがカルマの理論としてあるわけだね。
で、すべては因のないものはないと。あるいは理由のないものはないって考え方がある。例えばどういうことかっていうと、なにげなくね、歩いてたら風が吹いてきたと。これも絶対因がある。あるいは歩いてたら、鳥の声が聞こえたと。これも因がある。で、それは、悪口を言ったら将来悪口言われましたと。これはわかりやすいよね。わかりやすいし、これはすごく「あー、だったら私は悪口を言われても耐えて浄化しましょう」ですむんだけど、そうじゃなくて、あまりわれわれの苦しみとか喜びとは関係ないんだけども、過去の因によって起きてることってあるわけですよ。それを逆に読み取るのが占星術なんです。それを占星術では星の配置で読み取るんです。
つまり例えば、Cさんが生まれたときに、火星がこの位置にあったっていうのは絶対理由があるんです、これもね。偶然火星がここにあったってありえないんです。たとえばCさんが前生食いしん坊だったから、ここに火星があるんです。あるいはCさんが食いしん坊じゃなかったらこっちにあったかもしれない。絶対これは決まってるんです。で、その法則性を読み取るのが占星術なんだね。
だからここに書いてあるのも同じで、結局「こういう法則性がありますよ」っていってるにすぎない。だから結果論として――まあこれが本当かどうか別としてね、結果論として、こういう時期に肉体を去ったら、それはこういう世界に行ったとみていいですよ、ということが書いてある。でもこれはあんまり考える必要はない。こういうところに心をとらわれると、「じゃあ、おれはこの時期の間に絶対に死ぬぞ」と。それはちょっと違う。そこを追求してもしょうがない。
だからいつも言うけどさ、風水とか占いとかで、運命をよくするためにこういうのを持ちましょうとか、ああいうのもあんまり意味がない。意味がないっていうか、効果はあるけども、それをやってもしょうがないんだね。それは条件を変えてるだけであって。つまり原因があって条件があって結果がありますよと。条件を変えることによって原因の、どの原因があらわれるかが違ってくるだけなんです。例えば自分の中に苦の原因が五個くらいあって、喜びの原因が三個くらいあったとして、で、この場合、苦の原因が五個あるから、苦の原因のほうがあらわれやすくなってる。
でもね、いつもいうけど、因があらわれるには条件が必要なんです。どういうことかっていうと、例えばCさんが過去に悪口を言ったために、悪口を言われなきゃいけないっていう因があったとしますよ。でも悪口を言われるためにはですよ、悪口を言うような奴との出会いが必要なんです。これは条件。
例えばCさんが会社でね、悪口を言うような人と出会ったと。その人が上司になったと。はい、これが条件設定のスタート。これで日々悪口を言われまくる。これによってこの「悪口を言われる」っていう因がどんどん消滅していくんです。
で、ここでCさんがですよ、風水とか占いを見て、「悪口を言われなくするにはどうすればいいんだろうか?」と。「赤いバラをいつも持てばいい」と。例えばね。そういうの読んだとしますよ。赤いバラを持ったとしますよ。それってね、効果あるんですよ、実際に。それによって微妙な条件の流れが変わるんです。それによってその悪口を言う人がいなくなる可能性があるんです。あるいはその人が優しくなっちゃって悪口言わなくなる場合がある。でもこれは悪口を言われる因っていうのはまだ残ってるんです。でも条件がちょっと変わっちゃったんだね。逆に優しくされるっていう因が三つくらいしかないのに、こいつがどんどん出るようになっちゃう。
で、最終的にはこの優しくされる因がなくなっちゃって、苦しみの因しかなくなるから、もうこうなったらCさんがどんな占いや風水やっても駄目です。因が苦しみしかないから。だからそういう生き方は駄目なんだね。
じゃなくて、「さあ苦しみよ来い」と。「私は徹底的にこの悪しき因を滅ぼしたいんだ」と。「だからどんどん苦しみ来てください」と。
昔ある修行者がいて、その人は四柱推命か奇門遁甲か忘れたけど、中国の占いを使って人に対してね、読んであげてる人だったんだね。「君はこの方角に行ったら良いことあるよ」と。でもその人が事業みたいなことをやるときにそれを使ったんだけど、すごい悪いことばっかり起きたと。で、周りの人が「あなたあれだけね、運命を操れて、他の人には結構いい結果を出してるのに、自分に対してはなんでそんな悪いことばっか起きるんだ」と。「いや、実は私はいつも最悪の結果を実践してきたんです」と。占って、最悪が起きるような方角にばっか行ってたんだって。それによって自分の悪しきカルマを落とそうとしてたんだって。
それはだから修行者の発想なんです。だから因があって、その因をいかになくすかなんです。結果的に一時的な幸せを得ようって世界じゃないんだね。
だから話がちょっと大きくなっちゃったけど、こういうものを見るときって、ちょっと気をつけなきゃいけないね。あまりそういう深い修行の考え方知らない人がね、こういうの見ると、「ああ、じゃあ、おれはこのときに死のう」とかいって、そういうちょとあまり利益のない考えに行ってしまう。
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