yoga school kailas

「完全なる神への礼拝」

◎完全なる神への礼拝

【本文】
 また深い信仰心をもって他の神々を拝む人々もいるが、
 実は彼らもまた、正しい方法ではないのだが、やはりわたしを拝んでいることになるのである。

 なぜなら、わたしだけがあらゆる種類の供養の受け取り主だからである。
 しかし他の神々を拝む者たちは、こうしたわたしの実相を知らぬため、みな輪廻転生を繰り返すこととなる。

 ここで私とかあるいは他の神々といわれているのは、名前ではありません。概念だね。
 例えばいろんな宗教やいろんな宗派で、私の神はこうですと。この神はこうこうこういう性質をもっているんですと。こういう恩恵を与えてくれるんですよっていう概念がある。それに対して拝んでる。つまりね、クリシュナというか完全なる神というのは、われわれに無量の恩恵を注いでいます。ちょうど太陽のように、無限の恩恵を注ぎ続けているんだけど、こっち側がさっき言ったフィルターを作るんだね。そのものの見方を制限するんです。制限するっていうことは、制限したその穴からしか恩恵を受けられない。
 最悪の場合は、完全にドームで覆うと。ドームで覆うんだけど、ある程度の信仰を持っている人は、そのドームにちょっと穴を開ける。それは三角形だったり、四角だったりする。例えば屋根に三角形の穴を開けた人は、三角形の光の恩恵を受ける。これがここで書かれていることだね。自分の観念どおりの恩恵しか受けられない。
 ということは、最高の恩恵を受けようとしたらどうすればいいのか――観念を壊さなきゃいけない(笑)。つまり、自分の「こうです。こうだから信仰するんです」とか、「私はこうしたいんです」とか、そんなのは全部捨てて、完全に委ねなきゃいけない。
 修行においてもこれはそうなんだね。ちょっと話がずれるけど、悟りをみなさんが得たいと思うときも全く同じで、まず自分の中に先にね、「私のイメージする悟りはこうです」とか、「私のイメージする修行はこうです」というのがあると、実際に師匠が弟子を悟らせようとする場合に、「ちょっと話が違います」と(笑)。「私はそういうイメージじゃなかったんです」ってなると(笑)、本当の悟りは得られない。その人がイメージしているものは得られるけどね。そのイメージっていうのは、さっきから言っているように、もともと無智なんだから、無智な自分がしたイメージなんて、大したものじゃない。本質とは全然違うんだね。それにこだわっていると、駄目なんです。
 修行がだんだん進む間に、明らかに修行が進んでるっていうのが分かるんだけど、そこで起きる自分の精神状態が、前にイメージしていたものと全然違うんです。悟りとか、修行が進んでこの段階にくるとこうだろうなーとなんとなくイメージしていたものと、全然違うのが来る。これははっきり言って、全然違います。馬と柿ほど違います(笑)。
 「馬と柿ほど違う」ってどういう意味かっていうと、例えば「馬とシマウマほど違う」っていうなら分かるよね。馬とシマウマってどうなんだろうね。生物学的にかなり違うのかな。まあ、よく分からないけど、同じ馬という名前で、縞があると。それくらい違う。それはまだ比較の対象内だよね。「馬と柿」ってなったら(笑)、比較の対象外なんだよね(笑)。果物と動物だから(笑)。違うとか違わないとか、そういう世界じゃないっていうか――でも、それくらいなんです。「おれは悟りって、こう思ってたけど」――つまり、馬だと思ってたけど、シマウマだった――そういう問題じゃないんです。「馬だと思ってたら柿だったんだ!」っていう(笑)、そういう世界なんだね。
 でもそこで、例えば心の中で赤い柿みたいなものが出てきて、「え? 柿なの?」って思った時に(笑)、あまり観念が強すぎると、これを追いやっちゃうんだね。「え、ちょっと柿じゃないだろう」と。本当は柿が悟りなんだけども、馬だと思い込んでるから、そこでシマウマが出たくらいだったら許せるんだけど、柿が出てきたりすると(笑)、「ちょっとそれは違うだろう」となってしまう。だから悟りを求める上でもこれは駄目なんです。完全に自分を投げ出さないとね。
 じゃなくて、多くの人の場合は、限定した自分の観念内での信仰というのがある。「こうなんですよ」と。「こうでなきゃ私は駄目なんですよ」――この中でやっている人たちっていうのは、それはそれで悪くはないんだけども、その限定された恩恵しか受けられない。だから観念の放棄っていうのが、悟りには絶対に必要だね。
 これは論理的に言っても分かるでしょ。だって、観念を超えたところに悟りがあるんだから、観念内で「悟りとはこうだと思います」。――そこから一歩も出なかったら、当然悟りは得られない。それは単純なる観念の中の遊びに過ぎないというかな。
 でも、ここで言っているのは、その観念内での――例えばさっきのたとえで言うと、壁が貼られてて、そこに三角形の穴だけ開いたと。三角形の穴だけ開いて、「私はこの三角形の神を信じているんです」って言っても、そこから入ってくるのは太陽の光じゃないですか。それと全く同じで、われわれが「なんとか神!」とか言って供養してても、間違った観念的な供養であったとして、受け取り手は全部この絶対なるバガヴァーンなんです。絶対なるバガヴァーンが受け取っているんだけど、やっている人たちは「なんとか様」とか、違う名前で違う概念でやってるんだけども、ただバガヴァーンだけが受け取っているんだよと。しかしその観念的な枠組みがあるから、枠組みに則った恩恵しか受けられないんだということだね。
 だから逆に言うと、われわれが完全に自分の観念を捨て去って、完全なるこの――自分ではよく分からないけど、この宇宙の本質である存在に対して、あらゆる考え方を捨てて帰依するっていう道をとったならば、最高のすべての恩恵が受けられるんだと。
 ちょうどそれは裸になって家から飛び出たようなものだね。家の中にいて、こういう感じかなって穴を開けている状態じゃなくて、「わかりました!」と。素っ裸になってぱーっと出た状態。
 そういう意味では、修行っていうのは、特にこのバクティ・ヨーガとか悟りの修行っていうのは、「服を脱ぐ」ということだと言ってもいい。服を脱ぐんだね。服を着るんじゃないんです。現代人の考え方だと、服を着るっていう考えの方が多い。私は修行に入りましたと。じゃあこのような服を着ましょうと。どうでしょう、悟ってますかと。ね(笑)。これはどうでしょう――そうじゃなくて、いかに脱ぐかなんだね。
 師匠は弟子の服を引っぺがしていくんです。弟子は、この修行の道に入ったらこういういい服着れるなと思ったから、師匠について行ったら、いきなり脱がされると(笑)。話が違いますと(笑)。これが修行の道なんだね。だから着せられると思ってたら脱がされるっていう状況に陥ったときに、「どうぞ」って言えるかなんです。これが修行のポイントです(笑)。ちょっと抽象的だけどね。自分の観念と全く違うことが起きたときに、どうぞって言えるかだね。でも結局そういうことなんだね。素っ裸になって、家から出て、完全に自己を委ねられるか――これが限定的な神への礼拝と、完全なる神への礼拝の違いだね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする