「五つの困難な状況」
◎五つの困難な状況
はい、で、もう一つ全く違う意味があります。全く違う意味としては、これは、「五つの困難な状況」ってあるわけだけど、これは日常生じる問題。日常生じる五つの困難な状況っていうのがあって、その中でも心の訓練ね、つまり正しい心の持ち方から外れないようにしなきゃいけませんよっていう教えです。
それは何かって言うと、五つの困難な状況ね。まず一番目は、これは人間関係の話なんだけど、一番目は師匠との関係です。師匠との関係ってどういうことかっていうと、これは仏教とかヨーガの、それが高度な道であればあるほど――例えば密教であるとか、あるいは本当に一生のうちに悟りを求めるような道であればあるほど――だいたいその師匠に対する心構えとか、あるいは態度とかっていうのは、すごく厳しく説かれるんんだね。例えば極端に言えば、師匠の影さえも踏んではならないとかね。あるいは、本当にもう師を仏陀そのものとして敬うとかね。で、実際にその対応も、そのようなね、単なる人間ではなくて、仏陀そのものとしての礼儀とかも尽くさなきゃいけない。
で、それを教えとしては分かってるんだけど、師と弟子っていうのは特に――まあ大体、師匠っていうのは優しいです。ね。なぜかって言うと、慈愛があるから。慈愛があるから優しい。例外もあるけどね。例えばミラレーパの師匠のマルパとかは超厳しかったっていうけど(笑)。鬼のように厳しかったらしいけど。普通はやっぱり師匠っていうのは優しい。よって、師と弟子っていうのはちょっとこう友達関係のような感じになる場合が多いんだね。で、それはまさに師の優しさなんだけど――これは一つの、弟子にとっては落とし穴なんだね。つまり、師に対する敬虔な態度を保たなきゃいけないんだけど、でもなんかこう友達みたいになっちゃって、ちょっと失礼な感じになってしまうとか。これが、第一番目の困難な状況です。
だからここで言う困難っていうのは別に、うわーって苦しみがやってくるっていう意味じゃなくて、心の訓練が保てなくなってしまうパターンのことを言ってるんだね。だからもう一回言うけども、師と弟子の関係の場合、特にその師と弟子が近い場合、で、師がとても慈愛がある場合は、なんかこう自分がやるべきことを忘れてしまう場合がある。あるいは、師に対する尊敬がちょっと弱まってしまう場合がある。だからそれは駄目なんですよと。師に対しては徹底的に、仏陀のように見て、そして本当に敬いの心を持って接しなきゃいけないと。これが第一ですね。
◎家族
はい、第二番目。二番目は家族です。家族。これもみなさん心当たりがあると思う。例えば教えを学んで、「いや先生、最近はもう友人達に対して、本当に愛を持って接するようになった」と。「でも、お母さんには怒っちゃうんです」(笑)。ね。例えばね。例えば、友人や恋人に何を言われても耐えられるようになったと。でもお母さんには、例えば「早くご飯食え」と言われただけで(笑)、もう怒りが湧いてくると。
だから、家族ってそういう危険性があるんだね。つまり家族っていうのは、逆に言うと近い。近いから、ある意味心を許しちゃってる。心を許してるから逆に、自分の中のエゴも出やすくなるんだね。だから二番目の危険のポイントは家族です(笑)。つまり、普段はいいんだけど、家族と接しているときは、自分の中の悪い部分が出やすいんだと。
わたしもよくいろんな相談でよくそういうのを聞く。家族に対してこう悪いものが出てしまうと。だからこれも二番目の危険ポイントなので、それは逆にね、しっかり認識して、家族と一緒にいても――つまり逆に言うとそれはね、執着なんです。甘えなんだね。家族も一人の人間であると。わたしと関係の無い、いってみれば。わたしと家族の関係っていうのは、ボディを作ってくれた。これがお父さんお母さんです。ね。でもそれは、単なるボディだから。ボディは自分ではない。自分の乗り物に過ぎない。魂の乗り物に過ぎない。ボディを作ってくれて、で、ある年齢まで育ててくれた。その恩はもちろんあるよね。恩はあるけども、いつも言うように、われわれは輪廻転生の中で、あらゆる人たちと家族だった可能性があるわけだから。今生のこの何人かの家族だけに対して、強い執着を持つのは間違っている。そういう目で見ると、まず甘えが無くなる。甘えが無くなって、甘えが無くなるから、他の人に対して愛を向けられるけど家族には怒っちゃうみたいな、そういう変な現象が起きなくなる。だからこれも現実的にみなさんが日々実践しなきゃいけないことですね。
◎敵
はい、三番目が――これは分かりやすいけど――敵です。敵。いろんな意味での敵ね。敵に対しては、悪い気持ちが出ることがある。
つまり例えばね、よく例として挙げられるのは、チベットね。チベットっていうのはもちろん、ほとんどがもともとは仏教徒の国なわけだけど、まあみんなも知っての通り、ある時期から中国共産軍に攻められて、多くの――例えば拷問にあったりとか、あるいは略奪にあったりとか、あるいは牢屋に入れられたりとか――まあチベットっていう国そのものがもう中国に侵略されてしまった。で、ほとんどもうチベットっていう独立国はもちろん存在しない。で、人権もないような状況におかれている。で、多くのダライ・ラマを初めとした高僧達は、インドその他へ亡命していったわけだけど。さあ、ここでね――これはダライ・ラマ法王自身も言ってるんだけど――さあここで、例えば中国人がですよ、中国に悪いことが起きたとき――例えば中国が世界から非難を受けたとかね。あるいは中国でなんか災害があって、多くの中国人が死んだとかいうときに、チベット人の心の中に「やった!」っていう気持ちが起きる危険性があると。それは注意しなさいっていうことをダライ・ラマ法王が言ってるんだね。
これは意味分かるよね。つまり、チベット人からしてみたら、中国人っていうのは、自分達から仏教を奪って、自分達を肉体的あるいは経済的にも苦しめて、で、大切な教えも奪われて――今は大分ましになったみたいだけど、ある一時期はチベットでダライ・ラマの写真を持ってると逮捕される、とかね。あるいはマントラを唱えてると逮捕されるっていう時代が、実際あったんだね。そんなことをやった中国人。「ああ、あいつらが多く死んだと。あるいは世界から今批判を受けていると。やった、ざまあみろ!」って気持ちが起きやすいんだけど――それをやってしまったら、自分がもう菩薩ではなくなってしまう。ね。自分にどんなことをやってきた敵であろうとも、愛さなきゃいけない。
でも、今の例で分かるように、そういう敵対する存在に対しては、そのような悪い心が起きがちになるんだね。だからそれは、最初からそう認識しておいて、「さあ、わたしの中でそういう敵対する存在に対しても、決して悪い気持ちは起こさないぞ」ということも、普段から訓練しなきゃいけない。これが三番目ですね。
◎自分が尽くした相手
はい、四番目が逆に――これはね、あるシチュエーション、特殊なシチュエーションとして考えて欲しいんだけど――自分が一生懸命その人のために尽くしてあげているパターンね。これはいろんなパターンがあると思います。日常的な話でもいいんだけど、尽くしてあげてると。尽くしてあげてるんだけど、尽くしてあげているその相手が、「何でもっとちゃんとやらないの?」と逆に自分に責めてくる場合です(笑)。
こういうことって実際にあるよね。例えば、もう自分は本当に自分を犠牲にしてね――これはいろんなパターンがあると思うけども――つまり、日常的なパターンでもそうです。日常的に、そうですね、どんな例があるかな。例えば会社でね、同僚が大量な仕事でもうアップアップだったと。で、自分はその仕事関係無いんだけど、関係ないから帰っていいんだけど、あまりにかわいそうなので「手伝います」と言ったと。で、手伝って、一生懸命自分も全力で手伝ってると。それに対してその友人が「あんた遅い」と(笑)。「あなたがそんなんじゃ、今日終わんないじゃない!」――ここで、「何言ってんの、あんた!」と(笑)。「わたしは本当はやる必要ないのに、あなたのためにやってあげてるんじゃない! 何言ってるの!」――っていう気持ちを起こしちゃいけないということだね(笑)。この四番目のはね。
だから特殊なシチュエーションだけど。自分がいろんな形で尽くしている相手――見返りを持たずに、考えずに尽くしてるのに、相手がなんか逆にその自分に対して責めてくる場合がある。
つまり、何度も言うけど、この心の訓練って教えっていうのは非常に具体的なんだね。具体的っていうのは、実際にわれわれの日常で起きるシチュエーションをいろいろ想定してるんだね。そのときにも決して、その正しい心を自分から外しちゃいけないよっていうことです。
これもだからみなさんが頭に入れておいたらいい。実際に人生の中でそういうことってあるからね、たくさんね。実際にあるでしょ? まあ今言ったほど極端じゃなくても、ちょっとミニマムな形としては、みなさんいろいろ今まであると思う。自分は別に相手のために思ってやったのに、相手が逆に「足りない」とか言ってくるとか(笑)、文句を言ってくるとか。その場面でも相手に決して悪い気持ちを持っちゃいけないと。これが四番目。
◎嫌悪
はい、そして最後が、五番目が、五番目ってあの四番目の五番目ね。四番目の五番目が――何て言ったらいいかな――自然に出てくる相手への嫌悪。これは三パターンあります。三パターンっていうのは、まず自分に問題がある場合。二番目は、相手に問題がある場合。三番目は、双方に問題がある場合。
これはどういうことかっていうと、まず一番目に関しては、つまりこれはエネルギー的な問題とか、あるいはカルマ的な問題で、自分の方がね、自分自身にグワーッとちょっと嫌悪のカルマが出てくるときがある。怒りのカルマがね。そういうときっていうのは、会った人みんながなんか嫌な感じがするんだね(笑)。あるいは人と会いたくないっていうときとかね。そういうときに、例えばある人と接すると、これが一つの危険ポイントだってことだね。
まあこれは分かるよね。自分がちょっとすごくむしゃくしゃしてるとか、嫌悪が出てる、もしくはすごく誰とも会いたくないっていうときに、誰かがやって来たと。例えばそうだな、おしゃべりな友達がいて、自分もその人といつもよくおしゃべりでぺちゃくちゃしゃべってると。でも、自分は今日ちょっと非常に心が暗くて、で、誰とも会いたくないと。そういうときにいつものように友達がやって来てぺちゃくちゃしゃべり出す。そうすると、「うるせーな」と(笑)。普段だったら別にいいんだけど、うわーっと嫌悪が出てくる。そこで、その人に対して悪い思いとか出る場合がある。これはもちろん駄目だってことだね。
で、二番目のパターンとしては、相手に問題がある場合。相手に問題があるってどういうことかって言うと、つまり相手が嫌悪のカルマを持っている場合ね。相手が嫌悪のカルマをもってる場合、その人は多くの人から嫌われるカルマを持ちます。多くの人から嫌われるカルマってあるんだね。まあそれはもちろんその人のせいなんだけど、その人自身が多くの嫌悪――「みんな嫌いだー」っていうことを、例えば過去世からたくさんやってきてると、その人自身がなんかね、ちょっと人から嫌われる人になる。
よくね、これは例として挙げられるのは蛇とか蜘蛛とかね、ゴキブリとか。だいたい世界共通で嫌われてると。もちろん例外はあるよ。好きだっていう人もいるだろうけど、まあそれは一つの例外だとして、大多数の人が蛇、蜘蛛、ゴキブリ、この辺は嫌いというか気持ち悪いというか、「うわっ! 嫌だ!」っていう感覚を持つ。これはその蛇や蜘蛛やゴキブリの嫌悪のカルマなんだっていうんだね。つまり彼らが嫌われるカルマを持ってるから、それを見た人はなんか嫌な気持ちになってしまう。なんかこれが嫌いだって気持ちになってしまう。
で、実際これは現実問題として、人間でもあるわけです。つまりその人の中に嫌悪のカルマが多かったら、「なんかこの人嫌だな」っていうふうに多くの人が思ってしまう。それでいじめられたりする人もいるかもしれない。その人は別に悪いことやってないんだけど、なんか多くの人が「ちょっとあの人なんか気に食わない」ってこう思ってしまうっていうかね。
で、修行者が、例えばそういう人と接した場合、当然自分の中にも若干嫌悪のカルマがあれば、それに感応して、「なんかこの人ちょっと嫌な感じがする」って思ってしまうかもしれない。でもそれは分かると思うけど、そこで嫌悪すべきなんではなくて、もちろんこれは哀れみの対象になるわけだね。つまりこの人は、おそらく多くの嫌悪を周りに今まで振りまいてきたがために、多くの人から嫌悪されるようなカルマを持ってしまってる。で、ここでわたしまでもこの人を嫌悪してしまったら、この人は一体どうなるんだと。つまり、修行者とか菩薩っていうのは、みんなの救いにならなきゃいけないわけだね。救いにならなきゃいけないのに自分までもこの人を嫌悪してしまったら、一体どうなってしまうんだと。だから生理的にっていうか本能的にちょっとこう嫌悪が出てしまう人っていると思うんだけど、それも一つの危険ポイントですよと。それを本能に任せて相手を嫌悪したり、相手に悪い思いを持ってはいけない。じゃなくて、そこでもグッと自分を抑えて、正しい心の持ち方を出さなきゃいけない。これがまあその、四番目の五番目の二番目の話だね。
で、最後が、今度は双方に問題がある場合。双方っていうのはつまり、カルマ的な縁です。縁ね。これは分かるよね。つまり、前生ですごい敵だったとか、前生で憎しみ合ってたとかいう場合、例えばある人がいて、この人は別にみんなからは好かれてる。みんなからは好かれてるんだけど、自分がその人と会うとすごいその人が嫌な感じがするときってあるんだね。これはまさに縁です。憎しみ合う縁ってあるんだね。で、それも一つの危険ポイントだと。そういうタイプの人と出会ったときに、自分の中で悪い思いがいっぱい出そうになるけども、それをグッと抑えて、しっかりと正しい思いを持続させてくださいと。
はい、ちょっと長かったけど、もう一回言うよ。この「困難な状況に対応するために、絶えず訓練します」っていうのは、大きく分けて二つの意味があります。その一つは、「どんな苦難がやってきても耐えられるように、日々小さな苦難からも逃げずに、その苦難に耐えていく訓練をしましょう」と。これが一つ。
で、二番目が、「さまざまな状況において、自分の心がちょっと悪くなってしまう危険性のポイントがいくつかあります」と。それは今言った師匠との関係とか、家族との関係とか――今言った五つプラス、五番目はさらにその中で三つ挙げたけども――それらの場面でも心を変えないでくださいと。
だからこれは、最初にちゃんと自分の中で修習しておいた方がいいかもしれない。だいたいそこにはまってるときって分かんなくなっちゃうから。だから自分は、家族と会っても絶対に、家族に対しても平等心を持って、家族に対していろんな悪い思いを出さないぞ、とかね。普段からそういう準備をしておく。準備をしておいて、そういうようないろんな場面になったときに、自分の心がその教えから外れないようにっていうことですね、ここはね。