「三宝すべてが集約されたヴァジュラダラであるグル」
◎三宝すべてが集約されたヴァジュラダラであるグル
【本文】
『「勝楽生」の中に、
「グルは仏陀であり、グルは法であり、またグルはサンガである。」
と説かれているように、三宝すべてが集約された本質として、ヴァジュラダラの姿をしたグルを観想する。』
これは密教とか、あるいは密教じゃなくても本来はヨーガとかはそうなんだけど、グル、つまり自分の生きた師匠っていうものをすごく重要視するんですね。つまり、自分の生きた師匠への帰依っていうのをすごくもう第一に置くっていうかね。
そして仏・法・僧――つまり三宝っていうのは、さっきも言った仏法僧ね。つまり原始的な仏教とかではよく、仏法僧に帰依しなさいっていわれるね。これはリアルにいうと何なのかというと、リアルにいうとですよ、ここでいう仏っていうのはお釈迦様のことです。はっきりいうとね。つまりその時代、お釈迦様はまだ生きていらっしゃった。で、そのお釈迦様をもちろん仏陀として帰依するわけですね。で、お釈迦様の教えが法です。で、三番目の僧っていうのは、これはお釈迦様の弟子たちです。だからその辺にいるお坊さんがここの仏法僧の僧なわけではない。だって別に、例えば修行してなくてお金儲けしてるお坊さんに帰依したってしょうがない(笑)。じゃなくて、実際にお釈迦様がいらっしゃって、お釈迦様の弟子として、お釈迦様の救済活動を手伝ってる弟子たちがいらっしゃる。これが僧なんだね、本来はね。これが仏法僧です。
さて、しかし、現代われわれの前にお釈迦様はいらっしゃらない。あるいはその弟子たちもいない。しかし、われわれの前にはグルがいる、つまり師匠がいる。この師っていうのは、まさにこの三宝そのものなんだと。それはどういうことかっていうと、わたしの師というのは完全な悟りを得ている。つまりその心はお釈迦様と同じであると。仏陀と同じであるってまず考えるんだね。つまり、わたしの師匠の心は完全な仏陀だと。
次に、わたしの師匠の言葉は、完全な真理そのものだと。つまり仏法僧の「法」だね。仏法僧の「法」が、その師の言葉として今現われていると。
で、次に仏法僧の僧。ここでいう僧っていうのは、もう一回言うけども、お釈迦様がいらっしゃって、はい、お釈迦様一人では救済ができません。よってお釈迦様はまず弟子たちを訓練して、弟子たちを悟らせて、で、ある程度悟った人が増えてきたら、お釈迦はみんなに言うわけですね。「さあ、インド中に散らばれ」と。「みんなを救ってこい」と。お釈迦様が、この現象界でなくてもうちょっと霊的な世界だったら、分身をいっぱい出していっぱいいろんなことができるんだけど、この世界は肉体の世界だから、この粗雑な肉体では多くの人を救うことはできない。よって弟子たちを訓練して、つまり弟子たちを自分の分身のようにして、自分の救済の活動を行なわせるわけだね。
それと全く同じような形で、今自分の師匠っていうのは、仏陀の行動面――つまり実際のいろんな働きを自分の体を使ってやってらっしゃると。つまり、帰依の対象である仏法僧――仏陀と、教えと、それからその弟子たちのいろんな作業っていうかな、それが自分の師匠の心と、言葉と、さまざまな体の動きっていうかね、それとして今現われてるんだって考えるんだね。これがここのところですね。「グルは仏陀であり、グルは法であり、またグルはサンガである」と。三宝すべてが自分の今目の前にいらっしゃる、自分の師匠の中に集約してるんだっていうふうにしっかり考えるっていうことですね。
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