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「一切は虚空に等し」

【本文】

 感覚は心とともに生じるのであるから、心によって感受されるということはない。
 感覚が心とともに生じた後に、その感受が生じるのであると主張するならば、それは想起されているに過ぎない。

 自らが自分自身を感受することはないが、他のものによっても、感受されることはない。感受の主体は全く存在しない。それゆえ、感受は真実には存在しない。

 このように、心身の集合体に本質がないとき、誰がこれによって苦しめられようか。また一体誰に対して、会うとか別れるとかいうような欲求が生じようか。

 心は感官にはない。色形などにあるのではなく、両者の中間にも存在しない。心は内にもなく、外にもなく、他のところにもない。

 身体にもなく、身体の外にもなく、(身体と)混じり合っているのでもなく、単独でもない。全く心は存在しない。それは実在ではない。それゆえ衆生は、本質的にニルヴァーナに入っているのである。

 もし知識が知識の対象より先にあるなら、その知識は何を認識して発生するか。
 また知識が知識の対象とともに生ずるとすれば、それは何を認識して生じるのであろうか。
 また知識が知識の対象の後に生ずるとすれば、(刹那性の知の対象は、知が生じるときにはすでに滅してしまっているはずなので)その知はどこから生ずるか。

【解説】

 前節において、この肉体に関しての考察、つまり四念処の中の身念処の考察がなされました。
 それに引き続いて、受念処、すなわち感覚、感受作用というものへの考察、そして心念処、心についての考察が、ここにおいてなされています。
 四念処は、さまざまな角度からの考察が可能ですが、この流れにおいては、「空である」ということをポイントとして、考察が展開されていますね。これについても各自で読み、思索の材料にしてください。
 思索のポイントは、言葉の意味を探りつつも、言葉にとらわれないことです。シャーンティデーヴァが本当に言いたかったことを読み取るには、第一~八章までの修習と実践、そしてその他のさまざまな修行も必要だと思います。
 そして本文は、四念処の最後の法念処、すなわちすべての事象への考察から、この智慧の章のまとめへと入っていきます。

【本文】

 (すべての事象は)なんら、もろもろの条件や、集合体によって確立しているのではなく、他より来るのでもなく、とどまっているのでもなく、過ぎ去るでもない。
 幻と異ならないのに、愚人は真実と考えてしまうのである。

 幻によって作り出されたもの、およびもろもろの原因によって作り出されたものは、どこから来て、どこに去るか。考察せよ。

 現に存在している存在物にとって、もろもろの原因は一体何の必要があろうか。
 
 非存在であるときに存在物がないとするなら、一体いつ存在物は現われるであろうか。存在物が現われない限り、非存在は消え去らないであろう。非存在が消え去らないのであるから、存在物が現われる機会はない。

 存在物も、非存在の状態(本質)にはならない。(一つの事物が)二種の本質を持つということになってしまうから。

 このように、消滅もなければ生起もない。

 それゆえ、この全世界は、生起することもなく、消滅することもない。

 もろもろの輪廻世界は夢のようなもので、芭蕉のように核心がない。ニルヴァーナに入った者と入っていない者も、真実においては相違はない。
 
 かように諸法が空であれば、何が得られ、何が奪われることになろうか。
 誰が誰に対して尊敬したり、あるいは軽蔑せられるであろうか。

 楽や苦しみがどこにあろうか。何が好きで、何が嫌いか。何が渇愛であるか。その本質を探求するとき、どこに渇愛があるか。

 この生命世界を考察するなら、誰が実にそこで死ぬであろうか。輪廻の中で、誰が敵になり、誰が親族であり、誰が友人であろうか。一切を虚空に等しと理解せよ。

 人々は自ら楽を求めつつ、争いごとや嬉しさを原因として、怒ったり喜んだりする。悲哀や苦悩や落胆や、互いに切り合い断ち合い、ひどく惨めな有様で生活を送る。

 あたかも水浴しては繰り返しまた火に入るように、善趣に来ては、満たされることなく繰り返し楽を享受し、死後に永い間苦しむ。耐え難い悪趣に陥っているにも関わらず、惨めな人々は、自らを幸福であると思いなす。

 いったいいつ私は、無所得(空の立場)によって、恭しく功徳の資糧を積みながら、有所得(対象的認識)の見解のために破滅している人々に、空性を説こうか。

【解説】

 さあこれで、「智慧の完成」の章は終わりです。

 この章の真意を理解するためには、繰り返しになりますが、他の章の理解と実践が不可欠であると思います。

 そしてある程度この章の内容を頭で理解したと思ったとしても、真の理解は、実際に悟りを得るまでは訪れないと認識してください。自分の理解にとらわれると、また新たな過ちに陥ってしまいます。

 「入菩提行論」第一章から十章までの修習と実践により、いつの日か多くの人々が、実際に空性の悟りを得、輪廻の幻から解放されることを願ってやみません。

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