「プルナ・チャンドラ・ゴーシュ」(6)
1885年9月、シュリー・ラーマクリシュナは、癌の治療のためドッキネッショルからカルカッタに移らなければなりませんでした。
1885年10月30日の早朝、プルナは密かに師を訪れました。Mが到着した時、師は微笑しながら彼に言いました。
「プルナが今朝来たよ。彼はなんて素晴らしい性質なんだろう!」
残っている記録によると、師が亡くなる数か月前の1886年4月、プルナはコシポルのガーデンハウスでシュリ・ラーマクリシュナを最後に訪問していました。プルナはMが雇った馬車に乗って来ていました。
シュリー・ラーマクリシュナの死後、プルナはより一層世間を離れ、現世に関心を示さなくなっていました。彼は時折、シュリー・ラーマクリシュナの出家信者たちを訪れていました。しかしこのことが、彼の両親を不安にさせました。プルナが出家してしまうのではないかと恐れた両親は、プルナを無理やり結婚させました。彼はまだ16歳でした。プルナの父は金融庁の高官だったので、同じ職場でプルナによい仕事を見つくろうことができました。
プルナは後に出世しました。家従者としての務めを果たしてはいたものの、信者たちがプルナを訪れると、彼は師のことについてしか話さないか、もしくは沈黙し、彼らの会話に真摯に耳を傾けていました。
シュリー・ラーマクリシュナの神のドラマの中で、プルナは影の役者でした。彼は、ただ師の指示通りに生活しました。シュリー・ラーマクリシュナの他の信者や弟子たちは、プルナの並はずれた信仰心と、神への信頼、献身、謙虚さ、無私な態度をこよなく愛し、尊敬していました。Mはよく彼の若い教え子たちをプルナの元へ送り、聖なる仲間たちからインスピレーションを得させました。プルナは、誰かが現世を放棄して出家すると聞くと、いつでも喜びました。
1893年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがシカゴの世界宗教会議で成功を修めたという知らせがインド中に知れ渡りました。プルナは全ての新聞からそのニュースが掲載されている記事を切り抜き、バララーム・ボースの家に持っていきました。そこには、スワミ・ブラフマーナンダと他の直弟子たちがいました。プルナは、持ってきた新聞記事をみんなの前で大声で読み上げました。
1897年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがカルカッタに帰ってくると、プルナは彼に会いにシールダー駅に向かいました。彼はスワミジを遠くから眺めていましたが、大勢の人たちが群がっていたので、彼に近づくことができませんでした。
プルナは家に戻ると、会社に出勤する前にお風呂に入りました。ちょうどその時、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの馬車が、彼の家の前で止まりました。そして、スワミ・トリグナティターナンダが、プルナを呼びに家の中に入って来ました。プルナは圧倒されました。彼はすぐさま、濡れた服のまま外に飛び出して、スワミジに頭を下げました。
「弟プルナよ。元気かい?」
とスワミジは尋ねました。
プルナは答えました。
「スワミジ、師の恩寵により、私は元気です。シールダー駅であなたを遠くから見ておりました。会社に行かなければならなかったので、家に戻り、お風呂に入っていました。」
「それはよかった。」
とスワミジは愛深く答えました。
「濡れた服であまり長くいるな。仕事が終わったら、僧院に会いに来ておくれ。」