「スレンドラナート・ミトラ」(6)
スレンドラは、師を家にお招きする機会がある度に、ラームの家の右隣にあるカンクルガシの彼のガーデンハウスにお招きするのでした。
カルカッタにあるスレンドラの自宅は、ラーマクリシュナのお気に入りの場所の一つとなり、ここで信者たちと謁見したりするのでした。
「ラーマクリシュナの福音」には、ラーマクリシュナがスレンドラのガーデンハウスを訪ねたときのことが、二つ記されています。
1つは1883年12月26日と、もう1つは1884年7月15日です。
最初の出来事は、ガーデンハウスで軽食を食べていた僧に出会った話です。
もう1つの出来事は、スレンドラが多くの人が参加する祭を取り仕切ったときの話です。
それは大きな行事でした。師は賛歌が歌われている間、何度も深いサマーディーに入られました。
スレンドラはこのような方法で、他者に喜びを与えることが大好きでした。
この日、師はこうおっしゃった。
「スレンドラは、今はなんという善い気質を持っていることか!
彼はとても素直なのだよ。真実を話すことを恐れていない。
彼は公平無私で、物惜しみしないのだ。
彼のもとに助けを求めに行って、手ぶら帰る者は誰もいなかった。」
普通の人間には、至高者の化身であるアヴァターラの言葉やしぐさ、振る舞いは到底理解できません。
Mは祭の終盤で起きた出来事を、次のように描写していました。
小休止の後、ラーマクリシュナはドッキネッショルに発つ準備をしておられました。
師は、スレンドラの富について思索しておられました。
彼はやさしく神の御名を唱えながら、別の部屋を訪ねました。
突然、師は立ち上がり、
「そういえば食事の時に、私はルチ(揚げパン)を食べていなかった。ちょっとだけ持って来てくれないか。」
とおっしゃいました。
師は、ほんの少しだけお召し上がりになり、
「私がルチを頼んだことには、多くの意味があるのだ。
もし私がスレンドラの家で何も食べていないときは、必ず食べていないことを思い出さねばならず、それのために(スレンドラの家に)戻らねばならないのだよ。」
とおっしゃいました。
これはアヴァターラである師が、信者たちとお遊び(リーラー)される方法の一例です。
彼は磁石であり、信者たちは針なのです。
スレンドラは師への奉仕者の一人だっただけではなく、彼の評判には多くの『一番目』がありました。
1881年、スレンドラはドッキネッショルで、ラーマクリシュナの誕生祭を主催しました。
最初の二年間は、彼は多額の費用を彼自身で賄いましたが、三年目からは、他の信者たちが彼と費用を分担して賄いました。
1881年11月にカルカッタのスレンドラの自宅で、ナレンドラ(後のヴィヴェーカナンダ)とラーマクリシュナが初めて顔を合わせたのは、スレンドラを通じてでした。
さらに、スレンドラがナレンドラを初めてドッキネッショルに連れていきました。またスレンドラはラーマクリシュナを油絵で初めて描いた人物でした。
その絵の中で、ラーマクリシュナはケシャブ・センに、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教の調和をご指摘されていました。
ケシャブはその絵を見て言いました。
「このアイデアを具現化した人に祝福あれ!」
ラーマクリシュナはまた、この絵を見て、
「そう! これは『すべて』を包合している。これは現代の理想である。」
と述べられました。
1881年12月10日、スレンドラは師を、カルカッタのベンガル人写真家ラーダーバザールのフォトスタジオに連れて行きました。
ラーマクリシュナは写真機器に興味を示されました。
写真家は師に自分の技術について説明し、硝酸銀で覆われていたガラスが、どのようにして画像を撮るのかを見せました。
その後、師は、もし人の帰依心が汚されてしまった時、どのようにして神の印象を保持するのかを説明するために、この写真の例証を引用されました。
彼らがそこにいた間、スレンドラは写真家に師の写真を撮らせました。
ラーマクリシュナは写真を撮られていると、サマーディにお入りになられました。
このスタジオで撮られた肖像画は、師の存命中に撮られた三枚の写真の内の二番目のものでした。
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