「スレンドラナート・ミトラ」(終)
1885年9月、ラーマクリシュナは癌の治療のために、ドッキネッショルからカルカッタのシャーンプクルに居を移されました。
スレンドラは毎年祝賀祭を催していましたが、いくつもの不幸が生じたために続けられなったので、自宅で母なるドゥルガーを崇拝してよいとの許可を師から得ました。
彼の兄弟達は、自宅でドゥルガーの礼拝を催すことの迷信について不安がりましたが、スレンドラは、それを行い続けることを決心しました。ただ一つの落胆は、師が病のために来られることができなかったことです。
しかし、サンディプージャー(崇拝の期間の間の吉祥な第二、第三日のこと)の時に、師がご自分の部屋で、信者たち、医者のサルカール氏の面前で、深いサマーディに入られました。
師は、約1時間半後に通常意識に戻って来られました。
「光り輝く小道が、ここからスレンドラの家まで広がるビジョンを見た。
スレンドラの信仰によって、母がそこの像の中に顕現し、ご自身の第三の目で神の光を放射されたのだ。
普通の灯明が彼女の前で燃えて、庭で座っていたスレンドラは悲痛な面持ちで、『母よ!母よ!』と呼びかけながら泣き続けていたのだよ。
おまえたち、皆ですぐに彼(スレンドラ)の家に行っておあげ。
おまえたちと会うことで、彼の心が安らぐだろう。」
師のお言葉に従い、ナレンドラその他の信者たちはスレンドラの家に行きました。
驚くべきことに、そこで起きていた出来事の詳細が、師がご覧になられたヴィジョンと一致していたことが分かったのです。
ラーマクリシュナの容態が徐々に悪化していき、担当医は信者達に、カルカッタは空気が悪く、師のお体に障るので郊外に引越したほうが良いと忠告しました。
コシポルにガーデンハウスという物件が見つかったのですが、そこは月の家賃が八十ルピーと、当時としてはかなり高額でした。
ラーマクリシュナは、このことをお聞きになってスレンドラを呼び、おっしゃいました。
「スレンドラよ、見なさい!
信者達のほとんどが、大勢の家族を養っていたり、働いていても給料が安いというような者達ばかりだ。
このような者達がどうやって、ガーデンハウスの高い家賃を工面できるというのだね。
お前が家賃の全てをまかなってくれないか。」
と。
スレンドラは師のお言葉に喜んで同意しました。
その他にも彼は、時折必要になる物や、師の部屋の日光や温度を調節したりするブラインドのようなものを買うためのお金を布施したのでした。
スレンドラは今や、全く別人になっていました。
Mは、スレンドラの帰依と、神への心酔について、何回か手記に描写していました。
「それは晩の8時頃だった。ラーマクリシュナはベッドの上に座っておられた。
2、3の信者達が、師の正面で床に座っていた。
スレンドラは職場から着いたところだった。彼の手にはオレンジが四つと、花輪が二つがあった。
彼は、師と他の信者達を見ていた。
彼は、師の心の重荷を下ろしたのだった。
スレンドラは、Mと他の信者達を見て言った。
『私は、自分の事務仕事が終わればここに来ます。
近頃思うのですが、二隻の船の上に同時に立つ利点は何でしょうか。
私は自分の義務を最初に優先し、ここに来るようにしています。
今日は年の初めで、そしてまた火曜日で、母なる神を礼拝するには吉祥な日です。しかし私はカーリーガートには行きませんでした。』
私は自分自身に言った。
『カーリーを真に理解され、カーリーと一体である師とお会いできるだけで十分です。』
ラーマクリシュナは微笑まれた。
スレンドラ『ある方が、グルや聖者のもとへ伺う時は、果物と花を持っていくべきだとおっしゃいました。
だから私はこれらを(師のために)持って来たのです。
神のみが、私の心をご存知なのです。
ある人々の中には、1ペニー使うことさえ惜しいと感じる人もおり、他の人の中には、何千ルピー使おうともなんの躊躇もない人もいます。
神は信者の内なる敬愛を見、そして(敬愛者の)布施を喜んで受け入れられます。』
ラーマクリシュナはスレンドラに、それは正しいと、うなずかれた。
スレンドラ『私は先日、ここへ来ることができませんでした。年度末で、職場を抜けられなかったからです。
でも私は、師の写真の周りに花を飾りました。』
ラーマクリシュナはMにサインでおっしゃった。
『素晴らしい献身だ!』
と。」
1886年4月17日 Mの記述から
「それは夜の9時頃だった。
スレンドラと他の2、3人の信者がラーマクリシュナの部屋に入り、花輪を差し上げた。
ラーマクリシュナは、スレンドラの花輪を首にまかれた。
全員が黙ってそこに座っていた。
師が突然、スレンドラに、側に来るように合図された。
弟子がベッドの近くに来た時、ラーマクリシュナは自身の首から花輪をお取りになり、スレンドラの近くにそれをお置きになった。
スレンドラは師に礼拝した。
ラーマクリシュナは彼に足をこすり合わせるしぐさによって、彼に尋ねられた。そしてスレンドラにそれらに対し、やさしい言葉を差し上げた。
何人かの信者が、花壇の貯水池の岸で、シンバルやドラムの伴奏で歌っていた。
音楽が終わった。スレンドラは、至福の境地の中にあった。」
ラーマクリシュナは1886年8月16日に、コシポルのガーデンハウスでこの世を去りました。
ラーマクリシュナの死後、ガーデンハウスは解約されたので、そこに寝泊まりしていた何人かの若い弟子達は行き場がなくなり、自分達の望みとは裏腹に、家に帰らなければなりませんでした。
彼らはまるで、親を失った孤児のようでした。
9月初旬のある夜、スレンドラが自宅の礼拝所で瞑想していると、ラーマクリシュナが現れ、彼にこうおっしゃいました。
「お前はここで何をしているのかね? 私の子供達が行き場を無くして彷徨っているというのに。
他の何よりもまず、そのことに対処しなさい!」
スレンドラは急いでヴィヴェーカーナンダの家に行き、そこにいた何人かの若い法友たちに言いました。
「兄弟たちよ! どこに行きたいのだね?
我らの家を借りようではないか。
あなたたちはそこに住み、師の礼拝所を作ってください。
在家信者の我々は、そこへ師を礼拝しに行きます。
いかにして私たちは、妻と子供たちと共に、昼も夜も俗世で過ごすことができましょうか?
私はコシポルで、師のために多額のお金を使いました。
私は喜んで今、あなた方に、(住むための家の)費用を差し上げたいと思います。」
その後、バンガロールのガンガーのほとりに、月家賃11ルピーの家が借りられました。
スレンドラは家賃や食べ物、その他日用品を、ラーマクリシュナの若い出家修行者達のために布施しました。
Mは「福音」の中でこのように記述しています。
「スレンドラは実に祝福された魂である。ラーマクリシュナの名に関した偉大な『使命』の基礎を築いたのは彼である。
彼の献身と自己犠牲は、熱心な求道者達が現世を捨てて、神を具現化することを可能にしたのである。 」
しかしながらスレンドラは、(師が亡くなってから)長くは生きませんでした。
彼は1890年5月25日、40歳で亡くなりました。
彼が深刻な病に冒されたとき、アドブターナンダとラーマクリシュナーナンダは、彼に会いに行きました。
そのときにスレンドラは、師の礼拝所を建設するように、彼らに500ルピー布施しようとしましたが、 ラーマクリシュナーナンダは彼に言いました。
「あなたの健康が良くなるまで待とうではないか。その後にこのことについて話をしよう」
と。
スレンドラの容態は良くなることはありませんでしたが、死の直前、彼はガンガーの近くの修道所建設のためにと、1000ルピーを布施しました。
僧院の弟子たちはスレンドラの偉大な愛に報いるために、何か特別な時がきたらこのお金を使うことにしようと、このお金を使わずにおくことを決めました。
そしてベルル・マト建設の際、このお金は、衆生の幸福のため、そしてラーマクリシュナの像が置かれた礼拝所の床に使うための大理石購入の資金に充てられました。
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