「アドブターナンダの生涯」②(2)
「アドブターナンダの生涯」②(2)
◎聖者の模倣
はい、ちょっと話が大分ずれちゃいましたが、だから意識的に模倣すると。あるいは意識的にできなかったとしても、できるだけそういった――つまり人生的なっていうかな、「この人はこう生きた」っていう聖なるデータをいっぱいインプットすると。
もちろん、だからといってそのまま真似する必要はありませんよ。何を言いたいのかっていうと、例えばある聖者がいらっしゃったと。その聖者がこのように生きたと。でもそれはさ、もちろんその時代のこともあるし、あとカルマが違うよね。われわれとは違うカルマ・使命を持ってそういうことをやったと。この人はこういうときには、こういうことをやる人なんだなっていうのが分かるよね。それはそれでこうインプットされる。じゃあ彼が――例えばアドブターナンダでもいいよ、ヴィヴェーカーナンダでもいいし、あるいはブラフマーナンダでもラーマクリシュナでもいいわけだけど――彼が今のわたしの立場だったらどう思うだろうか、どう言うだろうかと、どう行動するだろうかって考えるんだね。
で、もちろん前から言ってるように、一人でも二人でもね、自分の理想像をこう掲げてね、例えば「わたしはブラフマーナンダが好きだからブラフマーナンダのようになるんだ!」でもいいんだけど、まあでもそれは一応メインとして置いといて、でもそれ以外の聖者のデータもいっぱいインプットすることで――っていうのはさ、例えばブラフマーナンダが好きだとしてね、伝記見たってブラフマーナンダのすべてが書いてあるわけじゃないよね。やっぱりある一面しか書いてなくて、「じゃあこういうときはどうだっただろう?」っていうのはよく分からない。だから自分が最も好きな聖者だけではなくて――もちろんある程度の同じようなカテゴライズされた聖者で構わないですよ。だからうちで出してるような『聖者の生涯』に載ってるような人たちっていうのは、だいたい同じような方向性の人たちばっかりが載ってるから、そういうのをしっかり読んでインプットするんだね。そうすると、例えば自分の行動すべき行動パターンが分からなくなったときに、それが入っていると、いくつか入っていると、「あ、そうだ! あの聖者はこのときこういうふうに言った」と。「ということは、今のわたしと似てるな」と。「だったらこういうふうにできるな」ってこういうことを表層で考えてもいいし。あるいはしっかりと心に入ってれば、さっきも言ったように、無意識にまねするようになります。これはとてもいいことですね。だから聖者の伝記を読むっていうのは、わたしは非常にお勧めしたいね。
いつも言ってるけど、わたしがここでカイラスで皆さんに勧めてる修行とかっていうのは、全部もちろんわたしの経験からきています。わたしはもちろん、偉そうに言うわけじゃないけど、いつも言うように中学生くらいから修行してるから――もちろん最初のころっていうのは遊びみたいな感じだったけど、でも一応中学生、まあ正確には分からないけど仮に十四歳ぐらいから修行してるとして、今四十一歳だから二十七年ですよね。二十七年の修行――今生だけでもですよ、今生だけでも二十七年あると。で、その中でもちろんわたしがいろんなパターンの修行をして、あるいはいろんなことにぶつかったり乗り越えたりしてて、「あ、これは要らないな」とか「これは必要だな」とかいろいろあるわけだね。で、その中でできるだけ皆さんに無駄なく、皆さんが修行が進むようなことを提供したいと思うわけだけど。で、その一つがやっぱりこの聖者の伝記なんだね。
これは多分今はよく分からなくても、ある時期皆さんはこの必要性がすごくよく分かると思います。
それはね、さっき歌った『願い』の歌にもちょっと関わってくるんだけど、あの歌で書いてある「すべてはあなたなので、わたしはすべてを受け入れて、ただあなたの教えを生きる指針とします」と。ね。
皆さんある段階にくると――悟りとかそこまでいってるかどうかは別にして、ある段階にくると、ちょっと、何ていうかな、アイデンティティーが吹っ飛ぶような時期がくる。アイデンティティーが吹っ飛んで、吹っ飛んで悟りなんだけど、でもちょっと変な言い方すると、吹っ飛んだ後に悟りまで行くまでにちょっとタイムラグがあったりする。あるいは悟ったとしてもですよ、悟ったとしても――ちょっと時間もないのでストレートに言うけども――悟ったとしても、その悟りの種類があるわけだけど、ある悟りの場合は、この世でうまく生きられるかどうかは別問題です。だって宇宙の真実を悟るだけだから。それでその人がこの世でどう生きるかってうのはまた別問題になるんだね。
でもこれは今、悟りとかは究極のことですけども、もう一回言うと、悟りまでいかなくてもね、悟りまでいかなくてもその道を歩んでいくと、だんだんだんだんアイデンティティーが剥がれ落ちていきます。逆に言うと剥がれ落ちないとおかしい。「わたしは」っていうのがだんだんなくなってくるんだね。今まで持ってたやつがですよ、なくなってくる。
で、この道こそが悟りの道なんです、本当はね。でもそのときに、「え? じゃあわたしはどう生きたらいいの?」っていうのが出てくる。で、そこでまだ悟ってるわけじゃないから、苦しみもいっぱいある。悲しみもいっぱいある。これどうしたらいいんですかと。わたし悲しいし苦しいし、修行しなきゃいけないし、でもアイデンティティーなくなってきてるし(笑)、どうしたらいいんですかと――そこで出てくるのが、過去の聖者どおりに生きりゃいいじゃないかと。ね。この人生なんて仮のものであると。ね。ただあなたの魂の成長のためだけにあると。そこのみに一点集中しろと。ね。つまり一点集中するのはいいんだけども――でも分かりやすいところはいいんだけども、こういうときどうしたいいの? ああいうときどうしたらいいの? だんだん分かんなくなってきました――いい意味でですよ。つまり自分の我が薄くなってくるから、前までは絶対こうしてたってのがあるんだけど、それはなくなってきたと。でもどうすればいいか分からないと。ここで聖者の生涯がものを言います。
もちろんね、教学がしっかりできていたら、伝記じゃなくでもいいんですよ。しっかりと教学ができてて、それが咀嚼されてピピピピピーってコンピューターのように「よし! このときはこれだ!」――これだったら伝記なしでもオッケーなんだけど、伝記があった方がやっぱり補助としてはすごくいいんだね。
伝記とかいっぱい読んでると、さっきも言ったようにストレートには合わないけどもいろいろ咀嚼されて、「あ、この聖者もこの聖者もこの聖者もこういうふうに生きてきた」と。「じゃあ、わたしも今こうするしかないじゃないか」っていうのが分かるんだね。それが皆さんの、ある意味危険な、そしてある意味あやふやな時期ってあるわけだけど、それを固めてくれるんだね。分かんなかったら聖者のまねしろと。ね。あるいは分かんなかったら聖者がどうだったかっていうのをしっかり考えろ――ということだね。
それによって皆さんの――特に皆さんみたいに菩薩とか、あるいは神のしもべであるとか、そういう積極的な――あの、修行っていうのは皆さん分かると思うけど、消極的な修行と積極的な修行がある。消極的な修行っていうのは、この世は嫌ですと。早くニルヴァーナに入りたいと。もうこの世に関わりたくない――これは消極的な修行ね。積極的な修行は、みんなのためにこの世で生きると。あるいは神の使命をしっかりとわたしは逃げずに実現するんだと。ね。このような積極的な修行をする場合、当然、「空だ、空だ」とかね、「ブラフマン、ブラフマン」とか言ってたら駄目ですよ(笑)。そりゃ確かに本人はいいのかもしれないけど、全然この世におけるスタイルっていうか、この世におけるその人の形っていうのが出てこない。
で、はっきりとちょっと変な話をすると、まあどうでもいいんです、それはね。どうでもいいんだけども、それが例えば悪に染まったものだとしたならば、当然自分の修行を落とすものであるし、あるいは周りにも悪い影響を与えるものになる。だから、ちょっとストレートな言い方を今してるけどね、究極の神への道をまずわれわれは求めなきゃいけない。これを求めている中で――ちょっと誤解を恐れずに言うよ――求めてる中で、はっきり言って「この世でどう生きるか」なんてどうでもいいです。どうでもいいんだが、どうでもよくない。どうでもいいんだがどうでもよくないっていうのは、実際それを疎かにしてしまうと、今言ったように、そのカルマによってわれわれは引きずり降ろされる場合もあるし、あるいは菩薩としては当然神の使命を果たすためには、それに則った聖なるこの世のスタイルも持ってなきゃいけないだね。だからそれは模倣すればいい。聖者の生き方を模倣する、もしくは教えをしっかり学んで教え通りの自分になる。
まあだからね、皆さんなら分かると思うからストレートに言うけどね、つまり、ロボットのようになればいいんです、はっきりと言うと。こういう話っていうのは、現代人には好まれない。だから多分ミクシィとかには書きません(笑)。
(一同笑)
ミクシィとかに「皆さん、ロボットになりましょう」とか書くと、「ああ、なんかそれは洗脳だ」とかね、「それはちょっと個性がどうこう」とかね、こう言う人がいるわけだけど(笑)。今、結構丁寧に話したからみんな分かってると思うけど、みんなもうロボットなんです。つまりカルマとかエゴとか過去の経験のロボットなんだね。だからロボットは変わらない。変な言い方すると、悟ったらロボットじゃなくなります。悟って初めて、皆さんの純粋なる本当の皆さんが出てくるわけだけど。悟るまでは、もしくはこの二元の世界にいるときっていうのは、全員がロボットなんだね。そのロボットのデータボックスね。どのように動き、どのように――まさにプログラムですね。そのプログラム自体をどうするのかと。それをもう一回言うけども「教え」あるいは「聖者の生き方」をしっかり学んで、それをインプットして、それで完璧に生きる人になりなさいということですね。そこに自分の感情なんていらない。
ちょっとこれも誤解を恐れずに言うけどね、感情いりません。本当にロボットのように聖者のまねをしてください。それで十分です。「え? でもそれ、まねじゃないですか?」って言うかもしれないけど、真似でも身・口・意――つまり心・言葉・行為において、もし一生まねしたら、それ本物ってことだからね。
ちょっとこのロジック分かります? 例えばY君が非常に汚い心を持っていて、口も悪くて、行動も見てらんないと。ね(笑)。こういう状態だったんだけど、例えば今言ったね、先生が「聖者を完璧にまねろ」と言ったと。「心・言葉・行為においてまねろ」と言ったと。「じゃあ、まねよう」と。例えば「うっ!」と怒りたくなったけど、いや、この聖者もこの聖者もこの聖者も怒ってないと。ね(笑)。こういうときこそ相手を愛すると。よってぐっと押さえて、ぐっと愛すると。あるいはぐっと悪口言い返しそうになるけども、愛の言葉を語ると。あるいは体で悪いことしそうになるけども、修行だけすると。ね。当然、これはストレスになるよね。ストレスになるし、「苦しいです」って言うかもしれない。でもいつも言うけども、もうわたしが言いたいこと分かってると思うけど、それはどうでもいいです(笑)。ストレスとか苦しいとかどうでもいいです。とにかくまねしましょうと。「先生、一日まねしました」と。「じゃあ、明日もまねしてください」と。次の日もまねしましたと。三日まねしましたと。例えばそれを知ってる人がいてね、「ああ、Y君は本当は汚い心で、言葉も汚くて、行為も汚かったんだけど、一所懸命、身・口・意を聖者のまねしてるみたいだ」と。ね。つまり本当はけがれたカルマを持ってるんだけど、一所懸命、身・口・意をまねしてると。二ヶ月経ちました、一年経ちました、十年経ちました、あるいは三十年経ちましたと。Y君死にましたと。でも少なくともY君は、わたしに言われて守ってからは、ずーっと聖者のまねをした心、聖者のまねをした言葉、聖者のまねをした動きだったとするよ。それって聖者ってことだよね、はっきり言って(笑)。つまり駄目なY君が聖者のまねをしてたんじゃなくって、Y君が聖者だったってことになる。結果論ですけどね。
われわれは変な概念をいつも持っていて、「わたしはこうだ!」っていう過去を引きずっていて、「こうだからおれは駄目なんだけど、聖者をまねしようかな」っていうこういう発想があるんだけど、じゃなくって、今この瞬間でも皆さんが聖者のまねしたら、瞬間的に聖者です、それはね。で、もしそれを一生続けたら、本当の聖者だったってことになる。
あの、もう一回言うけど、それは二元の世界においてですよ。悟りそのものっていうのはその二元を超えた世界なので、まねとかそういうものも超えた純粋な世界なんですけども、この世界においてはそれでいいんです。
ここでもう一回言うけども、「まねってなんか嫌だな」とか、あるいは「ちょっとオリジナリティがないのは嫌だ」っていう考えがもし皆さん出るとしたら、それがエゴだと思ってください。ここでいうそのオリジナルって錯覚――さっきから言ってるように、この世においてはオリジナルってないんだけど、ないんだけどオリジナルでありたいっていう錯覚がエゴです。実際はすべては模倣です。で、もう一回何度も繰り返すけども、だったら聖なる模倣をすればいい。聖なる模倣ってのは言い方を変えると、本当の意味で自分や周りに対して利益がある模倣です。どうせするんならその方法でしましょうと。
だから前もこういう話をここでしたけど、恥ずかしがる必要はないんだよ(笑)。恥ずかしがる必要はないっていうのは、つまりわれわれの中には恒常性維持機能っていうか、ずっと同じでいなきゃいけないっていう、なんか装置があるんだね。「Yは、Yでいなきゃいけない」って何かあるわけですね。皆さんが芸能人の大スターだったら別ですよ。例えば……最近のスターとか知らないけどさ、まあ例えば死んじゃったけど美空ひばりとかいたけど、美空ひばりは例えば日本の大スターだったと。「美空ひばりは美空ひばりじゃなきゃいけないんです!」と。まあ確かにそうかもしれないね、スターっていう意味ではね。あるいは、「長嶋茂雄は長島茂雄であらなければいけない」と。それはまあスターとしてのプライドかもしれない。でも別に「Yは……」とか言ってもね(笑)、別にどうでもいいです、そんなの(笑)。
(一同笑)
「おれがおれであるために」とかさ(笑)。
(一同笑)
そんなのどうでもいいよ(笑)。誰も気にしてないから(笑)。だから変な言い方したら、例えばこういう話を聞いて、次の勉強会のときに全員なんか違う人になっちゃっても全然構わないよ。うん。「あれ? みんなどうしちゃったの?」と。ね(笑)。なんかアドブターナンダとかブラフマーナンダとかホーリーマザーとか、なんかそんな人ばっかりだと。みんななんかそういう雰囲気と(笑)、語る言葉もそんな感じになっちゃって(笑)。それを恥ずかしがらないでくださいね。恥ずかしがるところがあって、それでなんか修行が遅れてる人がいっぱいいるんです。
例えば、わたしもこういろいろやり取りしてて思うけどね、例えば、本当は自分でその煩悩を打ち砕けると。打ち砕けるんだけど、自分のキャラクターとしては打ち砕いちゃいけないような(笑)、何かそういう錯覚があるんだね。「ここはここでもうちょっと迷妄にハマらないとおれじゃない!」みたいな(笑)、潜在意識にそういうのがあったりして、それで打ち砕けないことが結構あるんです。
だからね、ラーマクリシュナは、逆のことをいっぱい言ってるんだね。つまり「君たちは神の子である」と。ヴィヴェーカーナンダもそういう言い方をしてるね。キリスト教がよくいうように、「わたしは罪人です」なんて言っちゃ駄目だと。「我は神である」と。「我は神の子である」と。「だからわれわれが悟れないわけがないじゃないか」と。「ちょっと錯覚して変な世界に落ちちゃったけども、本来われわれは真の神の御子である」と、「そういう誇りを持ちなさい」という言い方をしてる。それは素晴らしいと思うね。つまり結局は心なんです。心が思った通りにこの世は動くし、心が思った通りにわれわれはなるんです。だからずーっと過去の「わたしはこうなんだ」っていう悪いデータを引きずってたら、それはそうなっちゃういますよ。そこから抜けられない。だからできるだけ心を柔軟にして、もう周りの目なんて気にしない。周りの目なんて気にしないで、もう今日から聖者になってください。今日から聖者になると。パッと変わると。
例えばそういう意味ではちょっといい例を出すと、T君は皆さんも知ってるようにハヌマーンが好きなわけだけど、ラーマクリシュナが修行時代にハヌマーンになりきる修行をしてたっていう話があって、そのときラーマクリシュナが布をこう腰に巻いてね、サルのしっぽを作って、「そこまでやってた!」みたいな話があって。で、それを読んだらT君は早速それをやり始めたわけだね(笑)。皆さんにそれをやれとは言わないけども、それはとてもいい発想ですね。それは周りにどう思われようと構わないと。つまり過去にそういうことをもしやった人がいて、それが素晴らしい見本なんだとしたら、もうそれになりきると。「ああ、わたしもそれをやろう」と。
だからすべて――もう一回言うけども、例えば表情もそうだし――これは何度も言うけど「教え」もそうですよ。わたしは『入菩提行論』が昔から好きでね、『入菩提行論』にはやっぱりかなり助けられたところがある。つまり、『入菩提行論』って非常に具体的なんだよね。あれをしっかり学んでると、インプットされるわけですね。つまり、シャンティデーヴァのように生きようと。例えば、「出会った人には必ず笑顔で会釈せよ」と。ああ、なるほどと。で、笑顔を見せるとかね。あるいは例えば、「朝起きたら速やかに立て」とかね。まあいろいろ細かい指示があるわけだけど。あるいはもちろん忍辱の章とかでは、自分がバカにされたり苦しめられたときの相手への考え方とかあるわけだけど。で、しっかり教学していることによって、心の反応として選択肢として出てくるんですね。普通はこうしてしまうんだけども、教えとしてこれが入ってると。で、それになりきるっていうかな。
そこで「自分はまだまだ」なんて思っちゃいけない。ここでいうまだまだっていうのは全然謙虚じゃないからね。自分のまだまだな部分を肯定してしまうと、一生まだまだだと。じゃなくて――あ! わたしの中にはこれだけのデータがあると。ね。これは今生学んだものでもあるけども、今生こういう教えに巡り会うってこと自体が、わたしの過去世からの真理との縁をあらわしてるわけだし。ね。そもそも根本的なことを言っちゃえば、すべての魂が純粋なる真我であるから、それをまず思い出すと。逆にわたしが今わたしと思って、ずっとロボットのように模倣してきたこの考え方やこの行動パターン自体が、実際は後で作られたものであって、余計なものなんだと。でも、その真我そのものに戻るにはまだちょっと行けてないと。そこまではまだ行けないので、行った人――真我とかに行った人たちがどう生きたかを真似るしかないんだと。あるいは真我までいった人たちがどのような教えを説いたかを、まずはインプットするしかないんだと。
で、何度も言うけども、過去の自分は放っぽって――もう放っぽっていいです。ゴミ箱に捨ててください。ゴミ箱にポイッと放っぽいて、教え通り生きると。
で、ちょっと一つ言っておくと、そうしても多分出てきます、過去の自分はね。だから逆に言うと、それでちょうどいいぐらいなんです。心配しないでもいいです。皆さんが過去の自分を放っぽって、完全に聖者とか教え通り生きようとしたって、やっぱり個性って出てきちゃうからね。結果的にはそうなっちゃうから、まず全然心配する必要はない。だから逆に百パーセント、二百パーセント、五百パーセントぐらいの気持ちで、自分を入れ替えてください。それでも出ます、どうせ。でも逆にそれぐらいでちょうどいい。五百パーセントぐらいわたしは自分を捨てようと。で、聖者になりきろうと。ね。聖者の集団になろうと。カイラスは聖者の集団であると。その一角を担おうと――いうぐらいの心持ちがいいね。