「アドブターナンダの生涯」②(1)
0111130聖者の生涯アドブターナンダ②
◎ラーマクリシュナの最大の奇跡
はい、アドブターナンダの生涯ね。アドブターナンダというのは、皆さんは多分多くの人が知ってると思うけど、ラーマクリシュナの弟子の中で非常に親近感を持つ、ラーマクリシュナの弟子の中では「少年ラトゥ」として、ラーマクリシュナの身の回りの世話していた召使いみたいな弟子だったんですね。
で、よくいわれるのが、「ラーマクリシュナの最大の奇跡」といわれてる。なぜかというと、ラーマクリシュナの弟子っていうのはなんだかんだいっても、やっぱり知性の高い若者が多かったんですね。つまり、ある程度教育を受けて、ある程度の宗教的知性を身につけてた若者たちが、無学の聖者といわれたほとんど学のないラーマクリシュナのもとにいっぱい集まったから、みんな驚いたわけだけどね。その中でもこのラトゥ、アドブターナンダだけは、非常に貧しい家の出で、しかも教育もほとんど受けていない。
で、あまりにも貧しいんで召使いに出されて、ある家で召使いをしていて、その召使いのご主人様がラーマクリシュナの信者だったんだね。その縁でラーマクリシュナのもとに連れてこられた人だったんですね。ほとんど学校の勉強を学んだことがないし、それどころか経典の学習もしたこともないし、それどころか――あの地方はベンガル語なわけだけども――ベンガル語もあんまり上手くしゃべれなかったっていうほどの人だから(笑)、すごい無学の人だったわけだけども、晩年、彼は学者も舌を巻くぐらいの智慧の言葉を多く残してるんだね。つまり、ある問題に対して誰も答えられないことをズバッと、このアドブターナンダが解決するとかね。
だからラーマクリシュナ最大の奇跡といわれてる。あんなに学もなく、全く表面的な学門をほとんどしてない少年を、学者も舌を巻くような大聖者に仕立て上げたっていうかな。このアドブターナンダ、ラトゥの物語ね。
で、こういったね、うちではこの『聖者の生涯』は今三巻まで出てますけども、聖者の生涯の話っていうのは――つまり伝記ですね、伝記っていうのはやっぱり必要ですね。必要っていうか、しっかりと読むといいと思う。単純に面白く文学として読むんじゃなくて、修行として読むといいと思う。
――っていうのはさ、まあ結局ね、何ていうかな、すべては模倣なんだね。模倣――つまり「物まね」です。チベットの諺でこういう諺があって、「すべては物まね。最善はよりよい物まねから」っていう諺があってね(笑)、結局すべては物まねだと。ということは、じゃあよりよいものを真似ろっていうかな。
こういう話すると中にはね、ちょっと嫌な人もいるかもしれない。あるいは「そうじゃない」と思う人もいるかもしれないけど、まああえて言うけども、すべては物まねです。物まねでないものはありません。つまりオリジナルってないんだね。それは意識的か無意識的かの差はあるよ。つまりほとんどの人は無意識に物まねしてるんです。生まれたときから何かをまねている。もちろんそれはミックスされることでオリジナルになるけども、それはなんていうか、オリジナルっていえるかっていう問題だね。ブレンドされてるだけだから。すべては物まねです。物まねでないものはありえません。
物まねでないものがあるとしたら――まあ実際はあるんだけどね――それは何かというと、内側から湧いてくる神の智慧っていうかな。それを難しい言葉でいうとヴィディヤー・マーヤーっていうんだね。ヴィディヤー・マーヤーっていうのは、われわれの経験とか全く関係なく――経験っていうのは難しい言葉でいうと「サンスカーラ」っていうんですけども、サンスカーラっていうのはつまり簡単に言うと、われわれの経験したことがデータとなってわれわれの心に入っちゃって、データの組み合わせによってわれわれはものを考えたりするわけだね。そこで「わたしは」とか思うんだけど、「わたしは」なんてないんです。「わたしは」って思っている「これ」は物まねですから、全部(笑)。模倣の集まり、ブレンドが「わたし」っていってるだけなんだね。
何回も言ってるけどさ、わたしは――最近どうなのかな? 獅子座の人っている(笑)? 獅子座、もういないか(笑)。獅子座がいないなら、じゃあ堂々と言うけども(笑)、わたし獅子座なんですけど、獅子座の人は占星術の一つの考え方だと、ポリシーがないと。ポリシーがなくて頑固なんだね。だからもう、ちょっと手に負えないっていうか(笑)。ポリシーがなくて頑固だから(笑)。意味分かります? ポリシーがなくて頑固ってことは、ポリシーがあって頑固なんだったら、そのポリシーを論理的になんとかすれば頑固さは消えるわけだけど、ポリシーなく頑固だから、もう手がつけられないんだね(笑)。理由なく頑固(笑)。でも逆に言うと、ポリシーがないから何かきっかけがあればコロッと心が変わると。
これは何を言ってるのかというと、つまり、わたしの性格としてね――修行に入る前ですよ。修行に入る前の性格として、子供のころとか、人の考えとかあるいは見聞きしたものを、まるで自分の考えのように錯覚してしまうっていうかな。そういうところがあったんだね。で、それを自分でそう意識するかどうかは別にして、そういうふうに思う人と思わない人がいるだろうけども、わたしは結構そういう特徴があったんだね。でもそれは実際心の世界っていうか、修行で瞑想とかで探ってみると、みんなそうなんだね。みんなただ気づいてないだけであって、あるいは無意識にやっているだけであって、模倣なんだね。
芸術とかもそうですよ。芸術とかも「自分の内側にあるものを表現したい」と。でも内側にあるもの自体もすでに模倣だから(笑)。模倣によって積み重ねられたものが内側にあるんだね。それをただ表現したいと言ってるだけ。
まあいつも言ってるけど、わたしは別に芸術とか勉強してないから、芸術論を語る資格はないかもしれないけど、でも一応語ると(笑)、芸術というのはいかに――さっきも言ったように――ストレートに純粋に神の世界を表現するかです。それ以外にはない。純粋にこのヴィディヤー・マーヤーをね――つまり自分のけがれが全く入り込まない、純粋な神からの光をいかに表現するかだけが芸術であって、自分が入り込んだ瞬間、それはただの自分の中に眠ってる腐ってる過去に模倣したもののブレンドを表現するだけなんだね。そんなのはどうでもいいっていうか。
でもそういう方が売れるけどね。なぜかっていうと、みんな共感するから。「あ、分かる分かる!」って(笑)。分かってどうするって感じだね(笑)。つまりその汚いものにもし共感するとしたら、自分の方にも汚いものがあるっていうだけで。
でもまあ汚いっていっても、神から見たら汚くても、みんながそれを共有してたら、それは人間界におけるスタンダードになるよね。だから人間界において売れるもの――今のポップスとかもそうだけど、売れるものというのは、まあいい悪いは別にして、多くの人が同じように持ってるデータっていうことですよね。
はい、ちょっとずれたけど、だから結局われわれは、――ヴィディヤー・マーヤー、あるいは最終的な悟りそのものっていうのは、そういった情報とは関係がない。その心の奥底から、あるいは神の祝福として恩寵としてやってくるものだから、それはもちろん純粋なものなんだけど、じゃなくて、今のわれわれは全部「真似」で生きてます。模倣で生きてます。で、これから脱出することは、悟るまではできません。悟ったら脱出しますよ。悟るまでは何かを模倣して生きるしかないんですね。だったら、もちろんいいものを模倣すればいいと。
ここでいう模倣っていってるのは、普通の教学とかもそうですよ。教学をすることによって、その考え方を学ぶと。考え方を学ぶことによって、自分の中の「こういうときはこう考えるんだ」っていうことが模倣されるっていうかインプットされて、それが情報として入るわけですね。そういうものも含めてですね、ここでいう模倣っていうのはね。
で、聖者の伝記を読むっていうのは、まさにもろ模倣なんだね。つまり聖者がどのように生きたかっていうのをインプットするわけだね。で、「じゃあ、わたしもそのように生きよう」と。つまり追体験ですね。
わたしは小さいころ――またわたしの話になるけども、結構テレビッ子で、テレビッ子っていうか田舎は結構そうなのかもしれないけど、よくわたしは昼間とかはね、親が共働きだったからおばあちゃんのうちとかによく預けられていたわけだけど、おばあちゃんとかはずーっとテレビ観てるんだね(笑)。テレビ観てるっていうか、つけっぱなし(笑)。ずっとつけっぱなしだから、普通にいるとテレビがかかってると。だからわたしもテレビよく観るようになって、もちろんドラマとかもよく観たりとか、あるいはもちろんアニメーションとか――もちろん物語性のないのもあるけどね。歌とかバラエティとかもあるけど、スポーツとかもあるけど、そういった物語性のあるアニメとかドラマとかよく観てるとやっぱり――もう一回言うけど、わたしはそういうの気づきやすいタイプだったから、なんか日常生活の友達とかの会話の中で、ちょっとやっぱり「あれをちょっとおれ、真似してるな」とかね、やっぱりあるわけだね。なんかその主人公になりきった――客観的には全然違いますよ。「どこがだ!」って感じなんだろうけど(笑)、客観的にみたら全然駄目なんだけど、自分としてはそれになりきって「おう……」みたいな感じで(笑)
(一同笑)
あとわたし、もともとマンガも好きだったし、あと小さい頃から多分周りに比べたら本も好きだった。わりと小さいころからいろんな本とか読んでたから、いろんな子供向けの小説とか、あるいは物語とか、あるいはマンガとかいっぱい読んでたから、それがやっぱり相当インプットされたね。で、その主人公になりきってっていうかな、ブレンドしたような感じで自分の理想像みたいなのができて、で、わたしはその自覚があった。「あ、やってんな」っていうね(笑)。「ああいうふりして、おれは今こういうことしゃべってんな」みたいな自覚がありながらやってたわけだけど、自覚のあるなしに関わらずやっぱりあるんだね、そういうのはね。
もちろんマンガとかドラマとか観ないっていう人も、当然周りの小さいころから付き合ってきた大人とか友達とかを、やっぱり模倣するよね。またわたしの話でいうと、わたし小学校三年、四年くらいのころ、クラスの中心人物みたいなときがあって――中心人物っていっても別に勉強ができるわけじゃなくて、すごく人を笑わせてたんだね。人を笑わせるのが得意で、まあ人気者っていうか中心人物だったんですね。でもわたしとコンビじゃないんですけども、もう一人そういう奴がいたんです。浅野君っていうんですけどね(笑)。
(一同笑)
浅野君ね。で、この浅野君っていう子が――つまり小学校三・四年だから、しかも昔の三・四年だから、みんなもうある意味ガキなんだね、まだね。でもちょっとわたしは大人びてて、そのころから。で、この浅野君も大人びてたんです。で、ちょっと先を行ってたんです、わたしの(笑)。
(一同笑)
ちょっと、だからね、若干憧れが入ってたっていうか。ちょっと古い時代だけどね、古い時代だけど小学校三年生ぐらいから――ちょっと古い時代の話なんでみんな笑うかもしれないけど――小学校三年生から、家に呼ばれてね、「おい、最近これ聴いてんだ」とかいってYMOを貸してくれて(笑)。「坂本龍一だ」とかいって(笑)。小学校三年生ですよ。今はちょっと違うかもしれないけど、まだみんな本当にもうかわいい子供みたいな感じですよ。でも浅野君だけもうYMOとか言ってて(笑)、テクノとか言ってて(笑)、「こいつ何か違う!」みたいな(笑)。
(一同笑)
で、センスがあるんだね、言葉とかにもね。人を笑わせるんだけど、わたしはさ、どっちかっていうとなんかドリフみたいな感じで(笑)、もうなんかうんこがどうとか、そういうなんていうかな(笑)、あの、ストレート過ぎるだろっていう感じだったんだけど(笑)
(一同笑)
その浅野君っていう子は、非常に洒落ているっていうか、子供とは思えないウィットに富んだ感じだったんだね(笑)。で、まあ二人とも人気者だったんだけど、わたしから見るとその浅野君がちょっと憧れの感じで、やっぱ真似してたね。うん。
(一同笑)
やっぱりその雰囲気とかね、たたずまいとかさ(笑)、こう、まねしちゃうんだね(笑)。
(一同笑)
それはさ、もう一回言うけど、わたしの場合そういうのに気づきやすい性格で、しかも今のエピソードもはっきりした話だったんで分かりやすかったけど、結構実はあると思うんですね。無意識のうちに、ちょっと憧れの存在の振りをまねするとかね。で、そういうのでできてるんです、人間なんて。
だってそうでしょ? 動物だってそうでしょ? 親を模倣するとかあるわけだけど、人間なんてもっとそういう知性が高いわけだから、どんどんインプットするんだね。インプットして、いいと思ったものを模倣するんだね。